001.クレヨン 悪戯だった。 本当に、ただの悪戯だったのだ。 それが事実にかわるなんて、思いもしなかった。 「グレン」 「…」 「グーレン」 「…」 「グレンってば」 「……」 何度呼びかけても答えない彼。 それは自分が大したことじゃないことで彼を呼んでいることを分かっているからだ。 「グレン」 兵法書の文字を追っているその視線が、一瞬だけこちらを見た。 飽きることなく彼の名前を呼ぶ自分を、呆れるでもなくただその瞳の中に映す。 刹那、アレンは背筋にゾクッと快感が走ったのを感じた。 しかしそれはすぐに波をひいたようにおさまってしまう。 彼の視線が机の上に広げている兵法書に戻ったのだ。 ―――もっと感じていたかったのに。 あの快感を。 「そんなにそれ、おもしろいか?」 「お前の話よりはな」 残念に思いながらも問い掛けると、やっと返事が返った。 全然可愛くない返事だったが、アレンは微かに笑んだ。 皮肉でも何でも、彼は確かに自分を意識してくれている。 自分の中にある優越感が満たされていく。 「グレン」 もう1度名を呼んでみたが、今度は返事は返らない。 代わりに、兵法書をめくるかすかな音が聞こえた。 確かな手ごたえ。 アレンは笑った。 「グレン」 「…何だ」 彼がこうやって返事を返すのは自分だけだ。 こういう風に、大したことでもないのに返事を返すのは。 彼はひどく淡白、というよりは冷めた性格で、どうでもいい人間にどうでもいいことを話し掛けられた時は相手にしない。 何度話し掛けられようが、視線さえもよこすことはない。 嫌でも人を惹きつける外見のせいか、それ以上に人を寄せ付けない雰囲気のせいか。 多分両方だろうと思うが、彼にそういう態度をとられても誰も怒らない。 友の元に戻って二言三言愚痴を言ったりするが、激高する者は誰もいない。 自分を除いて、彼に深く関わろうとする者は誰もいなかった。 もちろん自分も、関わろうと思って怒鳴りつけたわけでは決してないけれど。 「グレン、こっち向いてよ」 少し前の模擬試合をきっかけに、彼とだったら上手くやっていけるかもしれないと感じてから。 アレンは彼と一緒にいることが多くなった。 『多くなった』どころではなく『始終一緒にいる』の間違いだろうと友人に言われてやっと気づいたが、確かに自分はずっと彼と行動していた。 それが迷惑かと彼に訊いたことはないけれど、多分答えは自分が思っている通りなのだろう。 答えは、『迷惑ではない』。 それくらい、彼はアレンとその他の人間を区別する。 「グーレーンー」 彼は確実に、相手が自分ならば応えてくれる。 それこそ、可能な限りはいつでも。 本を読んでいても、ページをめくるために置いた手の指先を動かしてくれた。 疲れ果てて壁に身をもたせかけていても、わずかに目を開いてくれた。 機嫌がいい時は、すぐに声を聞かせてくれた。 それも大体は皮肉か嫌味であり、また自分がすぐに熱くなる性格というのが多いに手伝って一方的な言い合いになることが多いが。 それでも、彼は絶対に自分を無視しない。 「こっち向けってば」 自分だったら、彼は絶対に反応を返す。 心の中で思って、再び背中に快感が走った。 (優越感、かな。多分) 彼に特別扱いされていることに対しての。 他人には決して返されることのない、彼の仕草や声を独占していることに対する優越感。 彼がいくらそっけない態度をとっても彼に話し掛けようとする者がいなくならないのは、彼が確実に人を惹きつける人間だからだろう。 どんなにそっけなくされても、嫌でも気になる存在。 その人間に、1人だけ特別扱いされる自分。 ―――これが快感にならないわけ、ないよな。 「グレンシール、こっち向いて」 穏やかに、少し強めの声で名前を呼ぶ。 略したものではなく、本当の名前を。 「…何だよ、アレン」 兵法書から顔を上げて、椅子ごと身体をこちらに向ける。 緑の瞳が、自分を捕らえた。 彼の口から、アレンという名前が出た。 「っ…!」 身体中を、快感が突き抜けた。 「アレン?」 訝しげに自分を呼ぶ声。 それすらも快感を呼び起こすには十分で。 「…グレン、手、出して」 「はあ?」 「いいから。出して」 にっこり笑う自分に彼は呆れたように右手をさし出す。 アレンが嬉しそうにそれをとると、彼は微かに目を細めた。 「一体、何をする気なんだ?」 「あのな、ちょっと荷物整理してたら見つけたんだけど」 そう言ってアレンがポケットから出した小さな長方形の箱を見せると、彼は微かに笑う。 ザワ、と鳥肌が立った。 「クレヨン?」 「そう。懐かしいだろ?」 彼の笑顔を見れるのも、自分だけ。 右手を触らせてくれるのも、低めの彼の体温を知ってるのも、全ては自分だけ。 アレンは顔が綻ぶのを抑えられない。 嬉しくて仕方がないのだ。 この友人を独占できるのが。 「おい、アレン?」 呆れたような表情で、しかし楽しそうな声音で名前を呼ばれる。 ―――本当に、どうにかなってしまいそうなほど。 「…気持ちいい」 ん?と問い掛ける視線。 それがまた快感を呼び起こす。 「グレンシールは俺のだって書くんだ」 にっこり笑って言うと、彼は少し目を見開いた。 「お前の?」 「うん。グレンシールは、俺のなの」 「クレヨンでか?」 「そう」 「赤で?」 「だって、俺のだもん」 「赤は俺には似合わないぞ」 「緑じゃ俺のものってことにならないだろ?」 会話を重ねるごとに、お互いの頬が緩んでいく。 そしてアレンは、箱から取り出した赤いクレヨンで彼の右手の甲の上を走らせた。 簡素に『アレン』と。 それを見て、彼は更に笑う。 「俺はお前の所有物か?」 「俺のものだから名前を書くのが正しいだろ?」 「だったら、俺にもクレヨンよこせよ」 え?と思った時には、箱は奪われていた。 そして、彼の右手には緑のクレヨン。 「グレン?」 「俺がお前のものなんだったら」 先程のアレンと全く同じようにして右手をとり、クレヨンで書いた。 アレンの右手の甲に、『グレンシール』と。 それをまじまじと見て、唐突に理解して。 途端に、つま先から頭のてっぺんまで、何も動かなくなる。 「お前も俺のものだ、アレン」 壮絶なまでの、快感。 「…グレンシールの?」 数秒の間ぎゅ、と目をつぶって快感に耐え、それからぽつりと呟く。 目を開けて顔を上げてみると、彼は意地悪く笑った。 「そう。俺の」 「俺はグレンシールのもの?」 「ああ」 「…絶対、だな?」 「お前が先に言い出したんだろ?」 「だって、グレンは特別だから」 そう言うと、彼はまた微かに目を見開いて。 それから、笑った。 クレヨンで名前を書いてやろうと思ったのは、ただの悪戯だった。 もう少しだけ自分が独占してる部分を増やしたかった。 それだけだったのに。 「グレンシールは、俺のだよ?黙って誰かにあげたりするなよ」 「誰に言っているんだ?そっくり返してやるよ」 グレンシールを独占している。 悪戯が、願望を事実に変えた。 2003 確かな日付は分かりません。確か去年だった気がするんですが。 100のお題の筆頭なので、一番に書いてみました。 あとはランダムでいこうかと。 学生時代のグレアレですが、こんなことやってる男子がいたら気色悪いですねすいません。 ご精読ありがとうございました。 |