湿った匂いがする。
雨が降る直前の、独特の匂いを感じ取ってキルキスは浅いため息をついた。ここのところ長い雨が続いていてようやく昼過ぎに晴れたと思ったのだが、どうやら再び地面は濡れることになるようだ。
天気で気分が左右される方ではないのだけれど、ここまで雨続きだといい加減嫌にもなる。
 ニューヨーク一帯を支配している組織『猫』の持つ屋敷の一つ。ニュージャージーの高級一等地にある屋敷の庭をその二階の室内から眺めながら、キルキスはたった今開け放したばかりの窓を閉めた。
「せっかく晴れたと思ったのに…」
がっかりしたという声音で一人呟くと、後ろから豪快な笑い声が起きた。
「雨が降ったら、庭の花に水をやることができなくなるからな」
熊のような巨体をソファに沈めながら、幹部の一人であるビクトールがからかうように窓際にいるキルキスを見やる。
「ええ、その通りです」
原因をぴたりと言い当てられたことに苦笑して答えて、キルキスは薄いカーテンを引いた。
 この屋敷の広い庭は、木々や花がちゃんとそれ専門の者に整えられていていつ見ても美しい。それらに水をやるのがキルキスは好きなのだが、ここ二週間ばかりはその役目を雨にとられていてつまらない。だからこそ雲の隙間に陽射しを見つけた時はようやくと期待したのに、それは今すぐにでも打ち破られそうだ。
はぁ、と今度は浅くないため息をついて、ようやくキルキスは窓際から離れた。
 一方、彼の花好きを知っているビクトールは笑い続けている。
自分と同じ幹部の一人であるのに、この若者は妙に花が似合う。
専門の庭師にわざわざ頼み込んで、花に水をやる役目を譲ってもらったと嬉しそうに話しているのを見た時は本当に驚いたものだ。その繊細な容姿とは裏腹に力仕事も案外得意としているのだから、全く人間という奴は分からない。
まあ、自分のように明らかに表家業の人間だとは思えない格好の奴ばかりよりも、一見そこらの一般人より目立つ容姿のキルキスがいると助かることもある。
なかなか世の中は上手くできていると思いながら、ビクトールは高い天井を見上げた。
「それにしても、やっぱ平和が一番だよなぁ…」
ここ最近は、自分達幹部クラスの人間がわざわざ出て行くような大きな事は起きていない。もちろん小さな事件は絶えることなく起きているが、数年前の抗争に比べればまさしく今は平和だった。
「シルビアだっけか?花のことよりもそっちを気にしてやれよ。今からでも行ってやったらどうだ?」
「シルビナですよ。彼女とは昨日会いましたから、余計な気遣いは無用です」
そんなくだらない話をしながらも、二人がこの穏やかな時間を楽しんでいるのは明らかで。
 数年前―――正確には五年前の、あの抗争。
あの時はキルキスやビクトールも色々な場所へ出向き、自分達に歯向かう者を容赦なく殺した。別に今更人を殺すことにためらいがあるわけではないが、殺さずに日々をゆっくり過ごせるのならその方が余程いい。
花に水をやれるやれないで一喜一憂できるのも、平和な証拠だ。
「ほう、昨日会ったのか。どうりでスカッとした顔してやがる」
「下品なこと言わないで下さいよ、ビクトールさん。女性はそういうの気にするんですから、そんなこと言ってると彼女できませんよ」
「うるせえよ。おら、こっち来い」
「嫌です」
自分はソファから動こうとしないで手招きをするが、キルキスはそれを一言で両断した。窓際からは離れてもソファには近づこうとしない彼をジロリと睨んで、それでも自ら動くのは億劫なのか諦めたようにため息をつく。
キルキスはヘッドロックをかけられずにすんだことに安堵の息をはいて、だが一定距離以上近寄ろうとはせずに、ふとこの部屋の両端にある扉の一方を見つめる。つられたようにビクトールがそちらを見やると、その視線を受けたかのように静かに扉が開いた。
「あの方がお帰りになられました。下へ」
小柄で人の良さそうな顔の男だった。小さく、それでいて優しそうな目でビクトールとキルキスを交互に見やる。
ビクトールはそれに「おう」と笑って答えた。
「相変わらず『あの方』なんだな、サンチョ」
「はい。私の『主人』はただ一人だけですから」
苦笑して答えるサンチョに、二人は笑ってお互いを見た。事情を知らない者が聞けば問題発言だが、二人にとっては聞きなれた言葉だった。
「まあ確かに、お前さんがあのじいさん以外の奴に『旦那様』とか『主人』とか言っているところは想像できねえな」
「結局『あの方』に落ち着いたんですよね。マクシミリアンさんも、いい加減諦めたんでしょう?」
キルキスの言葉に小柄な男は頷いて返事代わりとした。
 マクシミリアンはサンチョの主人で、既に六十を越えているのに若い者達に交ざってここに居続けている。元々ヨーロッパ貴族の生まれらしいが、何故貴族の彼がそんな年になってからこの世界に入ってきたのかは本人以外知らない。サンチョはまだマクシミリアンがヨーロッパにいた頃、彼のお目付け役として彼の家族に雇われたらしいが、日々彼の後を追っているうちにマクシミリアン本人に忠誠を誓い、そして主人が行くのなら私もと一緒にニューヨーク一の組織―――『猫』に入ってしまったのだ。
ただサンチョはマクシミリアンを主人と呼んでいたから、彼以外を主人と呼ぶことはどうしても抵抗があった。それでも周りは―――特に事情をよく知らない下っ端は、血の気が多いだけに面倒なことを引き起こす。いちいち争いごとが起きてはかなわないとビクトールが発案したのがきっかけで、サンチョは自分の主人の主人、つまりマクシミリアンが属するこの組織を束ねる男のことを『あの方』と言うようになった。
 それからもうずっと長いこと。『あの方』と呼ばれる人間が代わっても、サンチョはずっとそう呼び続けている。
「前の代の時はあれだったけどよ、今『あの方』って呼ばれてる本人は、あんま呼び方とかは気にしねえしな」
そういうビクトールは、マクシミリアンに比べるとかなり若い頃にこの組織へ入った。
その頃のトップの名はバルバロッサといって、今現在『猫』を束ねている男はまだいなかった。
バロバロッサはどっしりとした威厳があり、それはマフィアのボスというよりも、どこか一国の皇帝といった方が合っていた気がするほどだ。
かといって話しにくいというのではなく、下っ端にまで声をかけ、もちろん一人一人のことを覚えているわけではないが、そんな立派な人だった。尊敬していない者はいなかったし、ビクトールも命をかけて組織のために働いた。
『猫』がニューヨークを支配下にしているのは当時からで、しかし今と比べるとやはりまだ規模は小さかった。元々巨大な組織ではあったが、それを最大のものとしたのはバルバロッサの後を継いだ男―――バルバロッサの元片腕である。
その男は、十年くらい前に組織に入った。
 この世界では年よりも実力が物を言う。
それを如実に周囲に思い知らせたのが他ならないこの男で、入って数年でバルバロッサの片腕となった。
自分よりも二桁近く年下の男が片腕となったと知った時の驚きを、ビクトールは今も覚えている。
 そしてあの抗争の起きる少し前。
バルバロッサが重病を患い、かかりつけの病院長にももう手はつけられないと通達された時。
組織は揺れた。
 次のボスは誰か。
候補は二人。
一人は当然、たった数年で片腕となりえた、そして実質的に二番目の地位にいる男。
もう一人は、クレイズという名前のバルバロッサの息子。
後者は親がボスということから候補になったのであり、才能的にも器的にも、誰が見てもトップとなりえるのは前者だった。
しかしクレイズは小心者だがこういう時だけは頭が回る男で、ニューヨーク近郊にたむろしている幾つもの小さな組織をうまく口車でのせ、自分の父親の片腕に喧嘩をしかけたのだ。
ビクトールは最初からクレイズの下に行く気はなく、当然のごとく他の者もそれにもならった。
あの大きくて強いバルバロッサの下で働いていた彼らが、小心者で組織を束ねる力もないクレイズの下で働きたいと思うはずがない。
『猫』の者のほとんどがそのまま片腕の男を支持し、そしてニューヨーク一帯で抗争が始まった。
毎日必ずどこかで小競り合い程度のものから小規模だが戦争といえるものまで起こり、一般人も多く巻き込まれては血が飛び散って。
所詮小さい組織の寄せ集めであり、戦況は常にクレイズ側が不利で、死者の多くも寄せ集めた組織の者だった。ただ武器だけはたくさん蓄えていたらしく、優勢なわりにはこちらからも多くの死者が出た。
ビクトールやキルキスも毎日色々な場所へ赴いてたくさんの人間を殺したが、そんな中ようやく、クレイズの居所を掴んだ。
 奴が一人隠れている場所は、海辺に建つ狭いアパートメント。
一気に攻めこんでやろうと意気込んだのは、血気盛んな下っ端だけではない。むしろ幹部らの方が、怒りは大きかった。
その彼らを屋敷にとどまらせたのは他でもない、元片腕の男。
何を言うでもなく、騒ぐ者達をただ一瞥することで黙らせた。それから数人の部下だけを連れて、夜の街へと消えてしまって。
帰ってきたのは、翌朝だった。
 そしてあっけなく、抗争は終わることになる。
それからすぐに、『猫』は元片腕の男の下にその支配力をどんどん強めていった。今まで手の届かなかったニューヨークのすみずみまで支配は進み、最早『猫』の地位はゆるぎようがない。
それは同時に元片腕の男が名実共に『猫』のトップとなったことを意味しており、五年たった今も組織の力が弱小することはなく。
 むしろ、ますます強くなってきている。
すごい男をトップにいただいたものだ、とビクトールは目を細めて思った。
 クレイズがあの一夜の間にどうなったかは皆が知っている。
ただ、どうやって死んだかは誰も知らない。知っているのは元片腕の男と、それについていった数人だけ。
何故彼は自分達を連れて行かなかったのだろうか、と。抗争が終わってしばらくは、ずっとそれを考えていた。
人数がいて困るということはない。むしろ少ない方が危険だろう。情勢は有利とはいえ、クレイズを守る為にどれくらいの者があちらにいるかはあの男も知らなかったはずだ。
なのに自らをいれても五人にも満たない人数でクレイズの元へ行ったのは、何故なのか。
どうしても分からなくて、そしてたまたまそういう機会が訪れた時。
どうでもよさそうに煙草を吸っている『猫』のトップに、ビクトールは聞いた。
突然の質問にも聞かれた方は表情を崩すこともなく、ただ簡素に、「面倒だった」と一言。
別に子供のように世話がかかるわけでもない。むしろ少人数で行った方が危険で、面倒事も起こりやすいだろうに。
そう言ったビクトールに、男は再び「面倒だった」と返すだけで、そしてその話は終わった。
何故面倒だと思ったのかは分からないし、更に謎が増えたようなものだが、とりあえず理由は聞いたのだ。その『聞いた』という行動はしたのだとなんとなくすっきりして、そして今の今まですっかり忘れていたのだが。
五年経った今も、何故彼がああ言ったのかは分からない。というか、多分本当にそう思ったのだろう。
 不思議な男だ。
バルバロッサとはまた違うものが、あの男にはある。
一見無表情だが、その頭の中では何を、どこまで先のことを考えているか分からない。
だがその考えていることが『猫』にとって利益なのは間違いなく、またあの男が何気に奔放主義なところも気に入っていた。バロバロッサの時にはあった幾つかの規則も今はなくされていて、上下関係の厳しいこの裏の世界では珍しいことだ。
だから俺も気軽にやってられんだけどな、とビクトールが高い天井を見上げた時。
 外で聞き慣れたエンジンの音がした。
この音の大きさは、もう玄関前に着いてしまっている。
「やべ、そうこう言ってるうちに下に着いちまった。行くぞキルキス…あ?」
先程まで自分の後ろにいたはずの若者がいない。
振り返って素っ頓狂な声を出したビクトールは、すぐに自分が置いていかれたことに気づいた。自分が回想していた間に、あの身軽な青年は先に部屋を出て行ってしまったのだ。
サンチョ曰く『あの方』の出迎えをするために。
「ちくしょ…あの野郎め」
毒づいてから、ビクトールは急いでサンチョの横を通り抜けた。長い廊下に出て角を曲がり、そしてまた長い廊下を走る。
 この屋敷は広い。
奇襲を仕掛けられた時のための防衛だが、こういう時は迷惑以外の何者でもなかった。
「くそ、またアップルにどやされるぜ」
ここを下りきればようやく玄関だ。
ビクトールはぼやきながら、やけに段数の多い階段を駆け下りる。
 目の端に、金髪が見えた。





















2004 4 20
キルキスは裏の世界でもまれてちょっとすれたってことでお願いします。
ちなみにアメリカ合衆国には一回も行ったことありません。気候も知りません。全部捏造ですみません。

ご精読ありがとうございました。