ビクトールのぼやきから遡ること、数時間前。
 ようやく小雨程度になった外を窓のガラス越しに見ながら、マッシュは一人ふむ、と呟いた。
二月ぶりに訪れたニューヨークは相変わらずの街並みだ。ワシントンだってたったニヶ月でかわるわけがないのだから、それは当然だろう。
「マッシュ様、そろそろお時間です」
背後からの声に自分の腕時計に視線を落とせば、約束の時間が五分後にせまっていた。
仕事の関係で一時間ほど早めに着いてしまったのだが、取り留めの無いことを考えているうちに時間はさっさと過ぎていたらしい。
後ろに控えている部下は自分の性格を把握しているからか、いつもいいところで声をかけてくれる。あのまま外を見つめていたら、相手が来ても気づかなかったかもしれない。
心地のよいソファに背を沈めることなく座っているマッシュは後ろを振り返り、立ったまま控えている部下に僅かな笑みをむけた。
「すまない。助かった」
「いえ。…そろそろおいでになられる頃ですね」
そう呟いてドアに目をやる部下につられるように、マッシュもそちらを見やる。上品なつくりの部屋は細かなところにまで細工が及んでおり、扉もこの部屋にふさわしい気品のある細工がされていた。
そのノブは、まだ動かない。
 約束の時間までは、あと三分。
だが、それを気にした風もなくマッシュは笑う。
「あちらも忙しい身だ。今日は時間があるから、ゆっくり待つとしよう」
「しかし」
「シュウ」
名前を呼ばれ、マッシュのすぐ後ろに控えていた若い男は―――シュウは、それ以上言葉をつなげるのをやめた。
「…言葉がすぎました。申し訳ありません」
シュウが目を伏せたのを気配だけで感じ、マッシュはやれやれと呟きながら軽いため息をつく。
 この若い部下は聡明で、外交には必要不可欠な処世術も身に付けているがこういうところがたまに傷だ。それ以外では本当に優秀で、いずれ自分の後をと思いいつも同行させているが、如何せんこれは本人の性格らしく何度言っても直らない。
シュウが彼と会うのは初めてだから、それも手伝っているのかもしれないが。
どうしたものかと考えながら、とりあえずそれは頭の奥の方へしまっておくことにする。
 もうすぐ、なのだ。
多少遅れるかもしれないが、ニ月ぶりに彼と話せるのはマッシュにとって楽しみだった。個人としてではなく、お互いの立場として。
 この国を表から動かす自分達と、裏を支配する彼ら。
この両者の間で不定期にある話し合いが、こんなにも楽しみになるとは思ってもいなかった。
五年前までは、ただの仕事で。別に楽しみだとかそんな感情はなくて、本当にただの仕事で、その時の相手と会っていた。
 だが今は。
背後にいるシュウにも分からないような微かな笑みを浮かべて、マッシュは再び外を見やる。雨の量は、先程と変わっていないようだ。
完璧な設備のおかげで、ガラス越しに雨の音は伝わってこない。
 しかし、それが返って五年前を思い出させる。
「………」
初めて彼に会ったのは、病院のVIPルームだった。
広いベッドに身を横たえてうっすらとこちらを見やるのは、今までの、そしてこれからもずっと商談相手だったはずの男。
 たくましかったはずの身体は、頼りなく見えた。力強かったはずの目は、これ以上ないほど穏やかだった。
そしてその脇に立ち、慌しく入って来た自分を静かに見つめていた彼。目が合うと僅かに頭を下げて、それまでいた場所をマッシュに譲った彼はひどく冷静に見えた。
実際、あの時の自分と比べて彼はとても冷静だったのだ。
自分のボスの死が近いことを知っていて、それでもなお取り乱さずに静かに見守る彼はあの時、既にこれからのことを考えていたのだろう。そんな彼だからこそ、自分は今こんなにも彼との話し合いを楽しみにしているのだ。
 そうマッシュが結論づけて、意識を自分の内から外へと向けたその時。
コンコン、とノックの音が広い部屋に響いた。そちらに目をやるのと同時に室内にいる自分への断りの言葉が聞こえ、シュウが代わりに答えた。
ソファから立ち上がると同時に、先程見つめていたドアのノブが動く。見慣れた支配人の顔が見え、そしてその後ろに。
 彼がいた。
その背後には、常に彼の側に控えている今現在の片腕。
時計の針は、約束の時間ジャストを指している。
室内に足をふみいれ、こちらを見やる、彼こそが。
 ニューヨーク一の組織『猫』を束ねる男―――グレンシールだ。







若い頃にホテルマンとしてのちゃんとした教育を受けたらしい初老の男性は、アッパーイーストにある高級ホテルの支配人としてふさわしい態度で、すぐに部屋を去った。
ドアが閉められるのと同時に、グレンシールはマッシュに向かって軽く頭を下げる。
「申し訳ない。予定では五分前には着けるはずだったんだが」
「いえ、時間はぴったりですよ。こちらが先に着いてしまっただけですので、気になさらず。―――座りませんか?」
穏やかに笑んで言うマッシュに、微かにだがグレンシールも笑みを見せる。そこらの政府高官とは違って、マッシュはいつも柔和な態度を崩さない。
 だからこそ、商談相手としてはやりやすかった。
再度軽く頭を下げてからテーブルを挟んだ向かい側に座る。
その間に、先程グレンシールの後について入って来た男―――クレイが室内から鍵を閉めた。カチャという小さな音が、広い部屋に響く。
そのままクレイが自分の背後に戻ってくるのを待ってから、グレンシールは口を開いた。
「そちらは?」
自分の後ろにいるクレイと同じように、マッシュの背後に控えている長髪の男。
初めて見る顔だ。東洋系だろうか、目も髪も深い黒である。
この部屋に入って来た時から、この男は自分をずっと見つめていた。
 睨みつけているといった方が正しいと、そう思うほどに強く。
「ああ、失礼。行く行くは私の後にと考えている部下です。今日も大切な経験となるかと思い連れてきたのですが…シュウ、グレンシール殿とクレイ殿に挨拶を」
振り返るマッシュの視線がにわかにきつくなる。そこでようやくグレンシールに向けられていた視線が消え、礼を失くさない程度にシュウは頭を下げた。
「シュウと申します。…お見知りおきを、グレンシール殿、クレイ殿」
「こちらこそ」
呆れるくらいに分かりやす過ぎるシュウの態度に、だがグレンシールは僅かだが笑みを添えて答え、その背後で会釈程度にクレイも礼をする。
そして、グレンシールの視線は再度マッシュへと動いた。
「…華僑が、この頃動きが速い」
「華僑?」
問い掛けるようなマッシュに、グレンシールは一つ頷く。
「華僑、と言うには早すぎる。だがチャイナタウンだけにしては、動きが速すぎる」
ダウンタウンの中にあるチャイナタウンは、言ってしまえば華僑のものだ。同朋を重んじる中国社会から世界の各地に散らばり、世界的経済に大きな影響力を持つ者達。
「一昨日、小さい組織の下っ端の一人がチャイナタウンで殺られた。うちに属している組織じゃないから情報が遅れたが、あれはチャイナタウンだけの仕業じゃない。証拠を残さない完璧なまでの手際のよさは、奴らだけじゃ無理だ」
殺したのはチャイナタウンの者だという証拠はある。だが、それ以外の証拠は全て消されていた。その手際のよさが、グレンシールの目を引いたのだ。
 ニューヨークで『猫』に属していない組織は、意外と数多くいる。だがそれらは全て一つ一つが非常に小さな組織であり、グレンシールが野放しにしておいても害はないと判断した組織だけだ。
今回チャイナタウンで殺されたのは、そういった『猫』には関係ない組織の者だった。
「…華僑が絡んでいるのは明白だと?」
「絡んでいないと判断することはできない。そう言ったところだ」
ひどく曖昧な状況だと言外に言って、グレンシールはマッシュから外へと視線を移動させる。
いつのまにか、雨があがっていたようだ。晴れ間はまだ見えないが、久々に晴れるのだろうか。
そんなことをふと思うと、真向かいからやれやれ、と声が聞こえて視線を戻す。
「面倒なことになりそうです」
そう言ってこちらを見るマッシュの表情は明るい。つられて、グレンシールも苦笑する。実際面倒なのだが、マッシュが言うとどこか軽く受け取れるから不思議だ。このあたりも、商談相手として優れている点なのだろう。
「今更『猫』をおびやかそうと思う馬鹿な輩はいないでしょう。それは多分、華僑としても同じこと」
明るいそのままの調子で話すマッシュに、グレンシールも頷く。
こちらからしても、華僑と争う気はないのだ。それが分かっているからこそ、今回の件は警戒すべき必要がある。
 すなわち、華僑で内部分裂が起こっているのではないかと。
内部分裂などと、血や同朋を大事にする中国人という観点から見れば有り得ないことだから、そんなことと一蹴してしまえばそれまでだ。
しかし、今回のチャイナタウンでの事件から見れば十分考えられることである。
ニューヨークを支配し、そして財界政界とも結びつきの強い『猫』を相手にするのはあちらからしても不利益なことばかりのはずだ。なのに今回のようなことを引き起こせば、こちらが警戒するのは当然のこと。それが分からないほど華僑の歴史は浅くない。
 少なくとも、華僑の頂点に立つ人物はこんなことはしないだろう。
そうすると、考えられるのはただ一つ。
 だが、そうと決め付けるには。
「まだ、全てがはやすぎる」
グレンシールの呟きに同意するように、今度はマッシュが頷いた。
これといって注目する点もない組織の下っ端の、チャイナタウンでの殺害。
その証拠隠滅が、チャイナタウンだけにしては速すぎて。
だがそれだけでは、華僑も絡んでいると断言するには早すぎて。
そこから推測すると内部分裂だという結論がでるが、それも早すぎるのだ。
「…面倒ですね」
「だからこそ、マッシュ殿に話しておきたかった」
先程とは違う重い呟きに、グレンシールが答える。言われた方のマッシュは苦笑して、諦めたように、だが楽しそうにため息をついた。
「分かりました。議会に怪しまれないくらいにやってみます」
その言葉に、グレンシールも笑みを見せる。
「そんなことを言うが、あなたなら簡単だろうに。大統領主席補佐官殿?」
 現アメリカ合衆国大統領の、主席補佐官。
それをわざわざ口に出したグレンシールに、マッシュは苦笑を深くする。
お互いに握手をしてからグレンシールは静かに立ち上がり、来た時と同様、軽く頭を下げた。
「それじゃ、俺はこれで。また何かあった時は」
「ええ、よろしくお願いします」
グレンシールが扉に向かい、背後にいたクレイがマッシュに向かって深々と頭を下げる。シュウには会釈程度ですませ、グレンシールの後を追って部屋を出た。
 派手ではなく、それでも上質であることが一目で分かる絨毯がひいてある廊下を角で曲がり、正面にあるエレベーターに乗り込む。
ホテルの最上階から一階ラウンジへ直行の箱の中で、グレンシールはぽつりと呟いた。
「ずいぶん敵意丸出しだったな」
あの、長髪の男。マフィア風情がマッシュに対する礼がなってないとでも言いたげな表情で、自分達が話し合っている最中もずっと睨んでいた。
 あれではマッシュの後を継ぐのは当分、難しいだろう。
「将来あの男が相手になるのだと思うと、先が思いやられますよ」
後ろに控えているクレイは呆れた声音で同意する。
話し合い中は表情に出すことはなかったが、どうやら自分以上にクレイは呆れていたらしい。マフィアと政府、正反対だが右腕という同じ立場の者として、あの態度は納得いかないのだろう。
 チンと高い音がして、エレベーターが開いた。一階はフロントとラウンジになっているが、そこを颯爽と歩く男二人に人々はいっせいに注目する。二人ともスーツを着ているが、その雰囲気からして普通の者ではないことが分かる。余程のエグゼクティブか、それとも逆の。
特に先を歩く男は人目をひくのは当然といった容姿の持ち主で、店員までもが視線をよこすがそれになにかを返すはずもなくさっさとエントランスを出て行ってしまった。
 一歩踏み出すと、先程やんだと思っていたそれがパラパラと降っていた。
「…雨か」
どうやら止んだのはたかだかあの数十分のことで、また降り出していたらしい。
「車から傘を取ってきますので、エントランスにいて下さい」
背後にいたクレイはそう言ってグレンシールをエントランスへひっこめると、すぐ先に停めてあるBMWへと走って行った。
結構降ってはいるが、本降りというわけではない。しかも車まではすぐの距離で、大して濡れるわけでもないのだ。
わざわざそんな手間をかけることもないだろうと、グレンシールはそのままエントランスを出ようとした。
「…どうしよう」
足を一歩踏み出した瞬間ふと声が聞こえて、そちらを見やる。エントランス内のそう離れていないところに、一人の少年がいた。空を見上げて、再びどうしようと呟く。
「雨やまないなあ…。ごめんな、お前濡れちゃうな」
ため息をついて、足元に向かって話しかける。自然な動きで視線を下げれば、うす汚れた犬が少年を見上げて尻尾をふっていた。
「うん、飼ってやるから大丈夫だからな。でも帰るまでが濡れちゃうよな…」
二度目のため息をついて、子犬―――少年の独り言のような会話から察するに、先程まで野良犬だったのだろう子犬の頭を優しく少年がなでる。しかし次の瞬間には、「あっ」と声をあげていきなり子犬を抱き上げた。自分の首の襟をひっぱって広げたことから、そこに子犬をいれることを思いついたのだろうということは容易に予想がついた。が、少年の期待通りに全て事が運ぶわけはない、子犬の足がひっかかってうまく入らずに「うわ」とか「いてっ」とか奇声が上がるばかりで。
 アッパーイーストにあるこのホテル、そのエントランスには不似合いなその光景に近くのドアマンに目をやれば、グレンシールの視線に気づいた彼は困ったような表情だった。
 ホテルにふさわしくないという理由で客を追い帰すのは所謂二流ホテルのやることで、どのような相手にも柔軟に完璧に対応できてこそ一流と言える。無碍に追い帰さないあたりこのホテルにふさわしい教育はちゃんとされているようだが、いかんせんまだ経験が足りないのだろう。
そう思ったところで、エントランスの自動ドアが開いてクレイが戻ってきた。
 その手には、傘。
「お待たせしました。…って、え?」
何も言わずにそれをぶん取ると、グレンシールはクレイの横をすりぬける。
「え、ちょっ…!?」
後ろからあがる腹心の部下の声にも反応せずにそのまま足を進め、そして傘を差し出した。
 子犬と格闘している、少年に。
「使え」
「……え?」
いきなり側に現れた男を見上げて、そして差し出された傘を見て。更にはその男が言った言葉に驚いて、少年は目を見開いた。
だがそれを気にすることもなく、グレンシールは片手でスムーズに傘を開いて、少年の頭の上にさしてやる。
そして子犬を抱き上げているため両手が塞がっている少年の腕の間に柄を通して落ちないようにすると、何も言わずに今度こそ外へと出るために自動ドアへと向かう。
驚いたままその場所でつっ立っているクレイに「行くぞ」と一言声をかけ、それでやっと我に返ったクレイが自分を追ってくるのを目の端で見て、ホテルを出た。
途端に先程よりも激しくなっている雨が当然降りかかってきたが、気にもとめずにそのまま車へと歩き出す。後から出てきたクレイが慌てて走りよって後部座席の扉を開け、いつものように乗りこんだ。
座りなれたBMWのシートに身を預けてから腕時計で時間を確認する。
 まだ正午前だ。
ホテルに着いたのが約一時間前。思っていたよりも時間はかからなかったようだ。
バタンと運転席の扉を閉めた振動が伝わり、頬についた小さな水滴が僅かに揺れる。
少し湿った髪をかきあげて前を見ると、バックミラー越しにこちらを見やるクレイと目が合った。
「なんだ?」
「いえ…何でも。ただ」
そこでバックミラーから視線を外して一呼吸おき、クレイはため息をついた。
「また気まぐれを起こされたんだなあと思っただけです」
呆れたようにちらりと再度バックミラーを見やれば、僅かとはいえ髪やスーツに水滴をつけたグレンシールがいる。水も滴る何とやらだが、どこの世界に自分の傘をそこらの一般人にあげてしまう―――しかもご丁寧に開いてやり、落ちないように支えてやってまでするマフィアのボスがいるのだろうか。
二回目のため息をついて、とりあえずエンジンをいれるためにキーを差しこんだ。
 こういう気まぐれを、グレンシールは時々起こす。
その度に周りは驚き、慌て、そしてため息をつくのだ。
 いつもは文句なしのボスである彼が、たまにみせる本当にそうとしか言い様がない気まぐれ。
そんな彼に驚きながらも、自分達の命はこの男に預けるのだと決めてしまっているから。彼に惹かれてやまない自分達への、諦めのため息だ。
それが分かっているからこそクレイは、三度目のそれをついて「仕方ないか」と内心で呟いてから、表情を改めた。ハンドルをきってBMWを道路に出す。
「このままお帰りになられますか?」
「ああ」
「分かりました」
また小雨になってきた雨を受けながら、BMWはアッパーイーストの通りを走り抜けていった。














2004 5 26
何で私はアレンじゃなくてマッシュを書いてるのかわけが分かりません。

ご精読ありがとうございました。