連日降り続いていた雨が嘘のように、太陽が向かいの建物を照らしている。
確かあれは何かのブランドショップだった気がするが、興味があるわけでもないのでグレンシールは視線をそらし、ついで手に持っていた数枚の書類をテーブルに置いた。乱雑に扱われたそれは少しばらけて、その内一枚が床に落ちたが拾う気も起きずにそのままソファに更に身を沈める。
このまま寝てしまおうかと思ったところでちょうど右後方にあるドアがノックされ、入って来た人間を振り返ることもなく目を閉じた。
 コツコツと靴音をたてて、側で止まる。
「狸寝入りですか?」
「本当に寝ようと思ってたところに、戻ってきた」
タイミングが悪い、と目を開ければ床に落ちていた書類を拾ったクレイが肩をすくめる。そして表向きは広告会社のオフィスである広い室内を見回してからため息をついた。
「何でお一人なんですか。スタリオンとルビィを置いていったはずですが?」
「何で置いていくのがその二人なんだ」
 幹部とまではいかなくとも中々の位置にいるこの二人は信用もできるが、側に置くには少し疲れる。別に他人がどうこうと気にする性質ではないけれども、さすがに一人は部屋中を走り回り、一人はやけに斜に構えた人間というのは何ともなしにやりにくい。
 だから違う仕事をやらせたと言うグレンシールに、クレイは再度ため息をついて。
「だったら他の者を呼んで下さいよ。もし奇襲されでもしたらどうするんですか」
「別に平気だろ。で?」
「…無事壊滅、夕方には戻るとのことです」
 新しく出てきたイタリア系の者達は馬鹿だったのか何か策があったのか、愚かにも『猫』に喧嘩をふっかけてきた。ニューヨークにあるカジノの一つを襲撃、店の者を全員殺した挙句に売上金まで持っていったのは致命的で、告げられた内容にグレンシールは軽く頷く。
「まあ、少しくらいは釣が来たか」
「と言ってもいいでしょうね。一応それなりの金は貯め込んでいましたし、ボスや幹部の細君や娘がなかなかどうして、結構な美人ぞろいです」
 正直に言えば、もう少し貯めておいてほしかったところですが。
今頃彼らのアジトには焼けた肉と硝煙、爆薬の臭いが満ちているはずだが、それで終わりではない。はむかった者には完膚なきまでの報復を与えるのがこの世界であり、それは残った家族や親類にまで及ぶ。
高く売れるだろうことを言外に告げて、クレイはそれと、と一枚の紙を差し出した。受け取って見ると綴られているのは予想通り、イタリア全土で最大勢力を誇るファミリーのボスからの、今回の件に関する謝罪とその詫びだった。元々はそのファミリーの傘下だったのだが反旗を翻してこちらへ逃げてきたらしい、細々としていればよかったものを、『猫』があちらと繋がっていることも知らずに無駄に高みを目指すから壊滅する羽目になるのだ。
 額にしては妥当なその詫びに納得して、しかし最後の一文にグレンシールは目をとめる。
「………」
「どうなさいました?」
「……面倒事押し付けやがった」
「は?」
面白くなさそうに呟いて、グレンシールは一つ息を吐いた。ついで壁にかけられているカレンダーを見て、テーブルに置いてある電話をとる。そろそろかと思ってスーツに忍ばせていた四角い紙を、胸元から取り出した。
「どこへ?」
「一ヶ月、経った」
番号を押していきながらも答えれば、有能な右腕はそのまま押し黙った。
 イタリアから帰ってきたその空港で受けた報告。
その一週間後にメディアに公開され、今も裏社会全体を騒がせているそのニュース。
 ―――テオ・マクドールの死から、一ヶ月が経っていた。













 テオが笑っている。
「父さん、何かいいことでもあったの?」
すごい嬉しそうだよ?と付け加えると、テオは酒を一口飲んでまた笑った。
「そうだな、なかなかにいい時間だった」
「珍しいね」
テオがそう言う時、それは最大の賛辞であることを知っている。今夜の話し相手は一体誰だったかと思い浮かべようとして、そして彼だということに気付いた。数時間前に会ったばかりだというのに、一瞬だとしても忘れるなんておかしいな、と首を傾げながらテオの杯に酒をつぐ。
いつもなら何かしら世話を焼く者達が最低でも二人はいるが、こうやって親子で杯を交わす時、テオは意図的に人を下げていた。豪奢でも何でもない、どこにでもあるような小さな卓を二人で囲い、酒を飲む。
こうした親子水入らずの時間を取れるのは多くて月に一、二度。何の邪魔も入らずにテオと話せるのは嬉しいが、本当はもう一人家族がいるのに。
 小さい頃からずっと一緒にいる彼は、それでもいつも、この時間に加わろうとはしない。
「そういえば、大分強くなったな」
「え?あ、うん」
一瞬違う方へと意識をとばしていたためか、テオが酒のことを言っているのだということに気づくのが遅れた。
大して離れていない正面に座るテオは嬉しそうに目を細め、小さい頃から鍛えた甲斐があったなと呟く。苦笑して、肩をすくめた。
「そりゃね。今じゃ父さんより強い自信あるよ?」
「言ってくれる。まだ負ける気はないんだが」
それでも息子に追い越されることを嬉しいと感じていることを、声も表情も、テオの全てが告げていて。
全てを追い越すにはあまりに大きく強い父に、しかし過剰でない期待をかけられていることを感じて笑みが浮かんだ。
 嬉しくて。
大きくない卓越しにテオの手が伸びて、前髪をかきあげられる。そのまま頭をなでられ、気恥ずかしいというよりは不思議に思った。子供の頃ならまだしも、こんなことをされたのは本当に久々で。
「と、父さん?」
「いや、久しぶりだなと思ってな」
「?う、ん。そうだね」
それは今の行動についてなのか、それともこういう時間を指してのことなのか。判断はできず、しかし前者も後者も嬉しいものであったので笑顔で頷く。
テオは、そんな自分を―――嬉しそうにというよりは幸せそうに、見つめて。
 それが、最後だった。
「…あ…」
見慣れた天井に気付き、は自分が覚醒したことに気付いた。
目尻から耳にかけて何かが伝う感触があって、ゆっくりと身を起こす。そのまま室内にある洗面所へ行き、顔を洗った。服を着替えて身支度を整えた後、その間に持ってこさせておいた朝食を片付ける。
 自室を出て向かう先は。
「おう、今朝も早いな」
大きな朱塗りの扉の前で陣取っていた男が、の姿を認めて顔を崩す。時間がまだ早いためかその顔は眠そうで、だが表情は明るい。は笑みを浮かべて側へと寄った。
「おはよう、タイ・ホー。毎日ごめんね」
「気にすんな、こんなの朝帰りと変わらねーからな」
数年前から知っている、裏表の無いその笑顔にホッとする。
「坊こそ、ちゃんと飯食ってんのか?ただでさえ細いんだ、あまり無理すんなよ」
「うん、ありがとう」
片手で軽く押すと、朱塗りの扉はキィ、と小さな音をたてて簡単に開いた。中を見つめ、そしてあくまで扉の外側に立つ男を振り返る。
タイ・ホーは心得たように浅く頷き、少しだけ笑った。
「ちゃんと今日も挨拶してこいよ。親父さんに」
誰にも邪魔はさせねえからよ。
暖かい言葉に頷き返して、そのまま中へ入った。後ろ手に扉を閉める。タイ・ホーがまた、その前に立つのが分かった。
 部屋の中は暗く、広い。
そのまま正面へ向かい、たくさんの花の中に埋もれている棺の前で止まる。
「…父さん、おはよう」
返ってくる声がないことは分かっている。それでもは毎朝続けていた。
 一ヶ月前。テオの死が耳に入った、その翌日から。
二十に満たない子供、だがテオの息子として、がしなければならないことはたくさんあった。各国へ散らばる華僑への連絡などは幹部達の仕事だが、やってきたその者達の出迎え、参列者への対応、葬儀をとりしきること。これからのこと。
テオと二人だけになれるのは、朝早いこの時間しかない。
「………」
思い出すのは、二人で飲んだ、最後の日。グレンシールが帰った後、ひどく上機嫌だったテオと最後に酒を飲み交わした日。
久々にの頭をなでた。幸せそうに自分を見つめていた。嬉しそうに話していた。酒が尽きる頃には、次は飲み比べでもするかと笑っていた。
笑っていたのに。涙がこぼれそうになる。
 死は、突然だった。
ブルックリンに出した店の視察の帰り、車に乗ろうとした直前にテオは近隣で起きた強盗事件に巻き込まれ、運悪く流れ弾が肺を貫通した。共にいた護衛も四人のうち三人が死傷し、犯人は逃走中で未だ捕まっていない。
 ありえないことだった。
ただの一般人だったならば運が無かったとしか言いようのない事件だが、華僑の長が巻き込まれるにしてはあまりにも。
 反乱分子、だろう。
全てを聞いたわけではなかった。だがあの日、確かにテオは言ったのだ。を静かに見つめて反乱分子がいる、と。
「…父さん」
目の前の棺に手を伸ばすと、冷たかった。この中には既にテオの身体はなく、だが骨壷に入った骨が、中で眠っている。
 どうすれば、いいのだろうか。
をとりまく世界は、血筋と年齢を重視する。年齢が幼すぎるのは否めないが、血筋ではに敵う者はいない。年齢を重ねた長老達が渋っても、必然的に長の座はのものとなる。だが、それだけでは駄目だ。掴み出さなければならない。華僑という広大な組織の中に潜む膿を。
テオを殺した、反乱分子達。
―――させはしない。
 壁には巨大な写真がかかっていた。
そこに写っているのは父としてではなく、華僑の長としての顔をしたテオが。
流れはしなかった涙がたまった目で、見上げる。
尊敬している父が自分にかける、その程よい期待に応えたいとずっと思っていた。
追い越せるとは思わなかったが、テオはそれよりも、が一つ一つ成長していく様を見ることを望んでいたように思う。側にいてやれないその間、少しずつ育っていく自分の息子の成長を誰よりも楽しみにしていた。
 一緒に過ごした時間は、確かに世間一般の父子に比べれば格段に少なかっただろう。
だがテオに対する尊敬と愛情は、の中に強く、強く。だからこそ、反乱分子の好きにさせはしない。
最後に棺を一撫でして、その向こうでタイ・ホーが番をしている朱塗りの扉へと引き返す。目にたまった涙を手の甲でぬぐい、外へ出た。
 タイ・ホーが目だけでを見る。
「もういいのか?」
「うん」
そうかと、タイ・ホーは口元を少し弛めた。一晩中起きてこのテオの葬儀の間の番をしてくれている男に、疲れの色はない。
一週間前、朝の少しだけ番をしてくれと頼んだのは、テオと二人だけになれる時間を誰にも邪魔されたくなかったからだ。誰かが来たら、今は駄目なのだと少しの間番をしてほしかった。だがこの男は朝だけではなく一晩中起きて、番をしてくれている。以前夜中にふらっとやってきた時、タイ・ホーは驚く様子もなくこの扉の前でを迎えた。
頼んだのは朝だけのはずなのに、何故こんな時間にいるのかと尋ねたに、相手はただ笑って。
「坊がいつ来てもいいようにな。俺がここで番をしてりゃあ、坊がいつ親父さんに会いたくなったって他の奴を追っ払えるだろう?」
そう言われた時は、涙が溢れた。
テオの息子として昼間は動くが、テオと二人になれるのは夜中から早朝にかけての間。いつ来るかも分からないのに、それでもがいつでもテオと二人になれるよう、タイ・ホーは毎日ここで番をしてくれている。
 疲れていないはずはないのに。
「…ありがとう、タイ・ホー。そろそろ部屋に戻って休んで?」
今日の挨拶はもうしたから。
そう笑うに男は頷く。
「そうだな、じゃあお言葉に甘えさせてもらうか」
そして自室の方へと歩き出したその背中を少し見つめて、それとは反対方向にも歩き出した。
長い回廊を幾つも曲がり、自室よりも更に奥へ進む。限られた者しか入れないエリアの中でもや特にテオの部屋までの道は分かりにくい造りになっており、慣れた者でも時に迷う。幼い頃、広いという言葉では表せないほどに広大なこの屋敷を遊び場としていたにとっては、まさに庭のようなものなのだけれども。
 この屋敷の小道までもを把握しているのは、四人だけだ。
テオとともう一人の家族、そして老齢の使用人。幹部や長老達がテオを尋ねる時は必ず、この老齢の使用人がテオの部屋へと案内していた。似たような回廊が幾つも続き、そのくせ一つでも曲がる角を間違えれば全く違う場所に出る。道を間違えることのないでもよくこんな屋敷をつくったものだと思うことがあったが、今のような事態になってからはちょうどいい。
 最後の角を曲がり、テオの部屋に入る。屋敷のわりに部屋自体は小さいもので、奥の扉の向こうには寝室があるがそれもこじんまりとしたものだ。様々な蔵書や書類が卓や棚を占め、それでも何台かあるパソコンの周りや卓の上、部屋全体が整然としているからテオらしい。
性格がそのままに出ていて、ここに来るたびテオに会っている気がして。
「……」
ここで過ごし、遺品や書類、そして他人には見せられないものなどを整理するのが、の日課だ。時間になると持ってこられた昼食を食べ、そのまま午後も引き続き整理する。といってもこれを始めたのは一週間ほど前からで、それ以前は各国からやってくる同朋の出迎えに一日が忙殺され、ここに来ることもままならなかった。力を持つ同胞の来訪がようやく途絶え、一般の華僑の相手は幹部に任せられるようになった頃、それでもテオの血を継ぐの姿が見たいという遠方からやってきた一般の華僑の声に応えないわけにはいかず、日課と言えるほど回数をこなしているわけではなかった。
 だがそれでも、この役目を誰かに譲るわけにはいかない。
「昨日はあそこをやったから、今日はこの辺だね」
広くはないが天井が高いため、棚の一番上をずっと見上げると首が痛くなる。一人呟いてそのまま床に腰を下ろし、低い棚から始めるのはいつものことだった。背が高いとはいえない自分が脚立にのっても届くところは目に見えていて、ならば助っ人が来るまでは自分にできるところをやっておいた方が効率はいい。
 分厚い蔵書に手を伸ばして、は集中した。



 華僑の歴史、傘下企業や銀行の名簿、そして数冊目、また新たな蔵書を紐解いて数頁めくった時、寝室から電話の音がして思わず振り返る。
あの電話は使用人にとられることなく、テオに直接つながるものだということは聞いて知っていた。テオが亡くなった日から二週間ほどの間、それも全て深夜に色々な相手からかかってきたが、内線とは違うその音を聞いたのは久し振りで少し慌てる。
全てがテオの死への悔やみ、これからの華僑はどうなるのか、次を継ぐへの挨拶だったが、またそれを繰り返すのかと、仕方ないとは思いつつも立ち上がって隣の部屋へ行き、受話器を手に取った。
「はい、・マクドールです」
『…お久し振りです、殿』
 その声に目を見開く。
今までは必ず相手の名前をメモに取り声を覚え、電話を切った直後にその相手との今までの関係を具に調べ、これも必死に覚えるようにしてきた。存在は知っていても初めて話すテオの息子に、相手も色々な感情を混ぜて会話していた。
 だがこの声は。
話したのは僅かな間、それでもの中に強い印象を残した男が浮かぶ。
「グレンシール、さん…」
呟くと、少し驚いたような気配が伝わってきた。
 会ったのは一度、しかも十分にも満たなかったが、よく覚えている。父が上機嫌だった、あの日。
「…お久し振りです。あの時は、失礼を致しました」
『いえ、こちらこそ急な電話をすみません。遅くなりましたが、お悔やみを』
「ありがとうございます。…あの、何故…?」
ここに電話をかけてきたということは、グレンシールとテオは何らかの理由で手を結んだのだろう。それは分かる。だが、にしては遅すぎるのではないだろうか。何故今ごろと、別に責めたいわけではない。純粋に感じただけなのだけれども、さすがにはっきり言うのは躊躇われて言葉が途中で止まる。
しかしそれを察したのか、ああ、と気付いたような声が聞こえた。
『一ヶ月経ちましたから。そろそろ、貴方の手も空くかと思ったので』
それだけで、理解できた。
 テオの死が公表されれば、各国に散らばるたくさんの華僑がの元を訪れるのは必然のこと。当然彼らの出迎えをするのはで、休めるのは夜中から明け方までの僅かな間。それでもここにかかってくる電話をとらない訳にはいかないから、睡眠時間は更に短くなる。
それを気遣っての―――を気遣っての、今なのだ。
「………」
殿?』
どうかしたのかという問いに、見えもしないのに反射的に首を振る。
思いも寄らなかった相手からの気遣いに、涙腺がゆるみそうになった。
「いえ、何でもありません。…ありがとう、ございます」
同じ言葉でも、こめられた気持ちは滑稽なほどに違う。
テオに対するものはいつも礼儀上のもので、その背後にはへの警戒や猜疑といったものが嫌でも感じられた。返す方も礼は失わない程度に、だが今のように実感をこめるのは無理だった。あちらとてそんなものは望んでいなかっただろう、けれど今だけは別で。
 泣きそうになっていることを悟られないように、息を吐いた。
「それであの、今日は…?」
『お父上からは、何も?』
「大しては。仕事のことを学ぶ前に、こんなことになってしまったので」
『では、反乱分子のことは?』
 瞬間、息を呑んだ。
『貴方とお会いしたあの日、テオ殿から直接お聞きしました。…ご存知ですね』
気配で悟られてしまったのか、グレンシールはが知っていることを確信している。誤魔化すことは無駄なのだと知り、それと同時に本来華僑の外へと出てしまってはいけないそれを何故知っているのか、こちらが尋ねる前に明らかにされたそれに驚いた。
テオが彼に話したということは、『猫』との付き合いはそんなにも深いのだろうか。
「…父からほんの少し、聞いただけです。グレンシールさんは、首謀者をご存知なのですか?」
息子である自分よりも先に、テオに打ち明けられていたという事実は悔しい。その反面もしかして、と期待が生まれる。しかし、それはすぐに破られた。
『いえ、全く。その存在がいるということを聞いただけです』
「…そうですか。あの、父とはどんな取引を?」
落胆しつつも、話題を移す。後を継ぐ者として、テオが行っていた取引内容は知っておかねばならないことだ。
他の相手との取引のことは色々なファイルに分散して纏められていたが、『猫』との取引のことだけは、どこを調べても載っていなかった。グレンシールが店を訪れたあの日からテオが亡くなるまで、その一ヶ月弱ほどの間に纏める時間がなかったのかもしれない。
そう思っていたのに、電話の向こうからは少し、驚いたような。
「グレンシールさん?」
『テオ殿からは、何も?』
「?はい。大抵のことはファイルに纏めてあったのですが、貴方とのことは一切、どこにも」
 言うと、少し考えるような間があった。
「あの…」
『…取引ではなく、提携です。うちと手を組みたいと、テオ殿が』
「提携…?」
単語を呟いて、眉を顰める。
急遽が後を継ぐことになった今ならば分かる。『猫』というバックアップがにあれば、少なくとも反乱分子は、当面の間目立った行動は控えるだろう。でも、テオには必要なかったはずなのに。
 何で。
『…貴方の為、と』
「え?」
 聞こえた声に、慌てて意識をそちらに戻す。改めて受話器を持ち直した。
『理由をお聞きした際、テオ殿は貴方の為だと。そう仰っていましたよ』
おそらくは、こうなることを予想して。
が一人で華僑を支えるのは仕方ないことだが、せめて少しでも、その重荷を減らすことが出来ればと。
 思いがけない言葉に、目を瞬く。
『『猫』がついていれば、当分は反乱分子も長老達も、動こうとはしないでしょう。それだけでもずいぶんと、楽になるはずだ』
それはたった今、が思っていたのと同じこと。
 各国に散らばる力のある華僑との信頼は、今の時点ではは結べていない。テオという後ろ盾がなく、各国の華僑とも繋がっていないを長の座から引き摺り下ろすのは、難しいことではあるができないことではないのだ。血を大事にするとはいっても未だ幼いが長になるのは、年齢を重ねた長老達からすれば不安は大きいはずだから。
だが政界財界との繋がりも強い『猫』がにつけば、おいそれと反乱分子も長老達も、手は出せない。少なくとも時間は稼げる。
 その間に。が華僑を掌握できるかどうか。
それで決まる。
 は、あの夜のテオの笑顔を思い浮かべた。
とても上機嫌で、幸せそうに自分を見つめて、嬉しそうに笑って。
あれは全て、『猫』との取引か何かがうまくいったからなのだと思っていたのだけれど。本当は。
 本当は、の後ろ盾となる存在が決まったから。
華僑には華僑のルールがあり、そこに立ち入ることはいくらグレンシールといえども出来るものではない。それでも、その存在があるのとないのとでは大きく違う。
 あの夜嬉しそうに笑っていたのは、それが確約されたから。
自分亡き後、息子に降りかかるであろう多くの困難が、僅かでも減ることが決定したから。
だからあんなにも、上機嫌で。嬉しそうに、幸せそうに笑っていたのだ。
 ただ、それだけのために。
「…っ」
涙が溢れる。
滅多に会えなくても、大切にされていた。愛されていた。
十分にそれを分かっていたはずだったのに、改めてそれを感じる。
自らのことよりも、ただ息子のことだけを考えて。
 父さん、と。
呼べば答えてくれた声は、もう永遠に返ってくることはないのに。
「…グレンシール、さん」
嗚咽が聞こえぬよう反射的に電話を覆った手のひらを外す。未だ涙は頬を伝っているが、声音は揺れない。
「当分の間、力を貸していただけますか」
ずっととは言わない。『猫』に見合うだけのものを、がこれからの華僑で生み出せるかは分からないからだ。だが、それが気に入ったのか何なのか。
 電話の向こうの相手が、微かに笑った気がした。
『十分なメリットはいただきました。…約束は、守りますよ』
それがマフィアの絶対的なルール。裏切った者には容赦しないが、利益のある取引相手をおろそかにすることは絶対にない。その約を、破ることも。
 今回は特に。受け取った利益が、一部というテオの言葉に大いに反するものだったのだから。
「では、近いうちにそちらへ伺います」
『分かりました。詳しいことはまた後日』
「はい。…あ」
会話が終わろうとした直前、あることを思い出して無意識に呟きが漏れる。
 華僑内に広まっている、噂。
殿?』
「…いえ、少し思い出したことがあったので。何でもありません」
言うべきか迷って、やめた。
二言三言交わしてから受話器を置く。一気に疲れたような気がした。短い時間で、感情が動きすぎたからかもしれない。
 不思議な人だ。
『猫』のボスになるくらいの人間だ、それにふさわしい冷酷さも持っているだろうに。が彼と接して感じることは、いつも驚きや思いがけない嬉しさや、そういうもので。それはがテオの息子で、今は取引相手だからだろうけれども。
叶うならテオとの提携期間が終わってからも、敵対はしたくない。
 浅く息を吐き、壁にかかっている時計を見上げる。そろそろ正午だ。の昼食を持った老齢の使用人が、助っ人を連れてくる時間だった。夕方までここで過ごし、それ以降は後継ぎとしてやらなければならないことがある。その中には、先ほど言いかけた噂を打ち消すことも含まれていた。
「…」
 テオが亡くなって一ヶ月、その間に少しずつ華僑内に広まっている噂があった。
テオを殺したのは『猫』という、馬鹿げたものだ。自身は全く頓着しなかったが、それを信じている者も中にはいるようだった。流しているのはもちろん、反乱分子だろう。彼との話し合いの後、反乱分子にそうと知られぬようにテオは事実とは逆の話を流した。それもあってか未だ噂は消えることなく華僑内に留まっているが、いい加減放ってはおけない。
そして、心配なのはテオ亡き後のたった一人の家族。テオが亡くなって一週間ほど経った頃から外出が多くなった彼は、訊いても何も答えようとはせず、曖昧に笑うばかりで。久し振りに戻ってきた数日前も、また少しの間いなくなると言っていた。
テオの死の原因を、彼なりに調べているんだろうことは簡単に予想がつくけれど、でも。
「変なこと考えてないだろうね、アレン―――」
 たまらなく、不安だった。










ようやく、見つけた。
色々な場所をかけずり回り、それこそ裏路地にまで入り込んで、やっと得た情報。思ったよりも表通りに近いその店は、外装も美しく普通のレストランにしか見えない。看板も出ていて、たった今も男女のカップルが入っていったばかりだ。別に怪しげな店ではなく、本当にただのレストランなのだ。
 月に一度、一週間後にせまったその日の夜以外は。
逸る動悸を沈めて、店を見上げる。
「……」
 ここに、来るのだ。あの男が。
アレンは今すぐ殴りこみたい衝動を抑えて、ゆっくりとそのドアを開けた。いらっしゃいませという、元気なウェイトレスの声が店内に響く。
アレンが入っていった、その店の裏の顔は。『猫』の息がかかった、オークション会場だった。
























2005 8 8
本物の華僑のシステムはどうなってるんだろう。

ご精読ありがとうございました。