その連絡があったのはマッシュとの商談を終え、車が五番街をぬける頃だった。
「オークションの支配人からです。目当ての本が入ったと」
運転は部下に任せ、助手席から振り返るクレイの声に堂々と含まれる不機嫌っぷりに、グレンシールは思わず目を瞬いた。
自分と二人の空間ならば昔からの気安さから驚かないが、隣に部下がいるにも関わらず隠そうともしないのは珍しい。現にハンドルを握っているその男は、初めて見るであろうNo.2の険に明らかに怯えている。それでも運転を乱すことだけはしないところは天晴れと言ってやるべきだろうか。
「…ずいぶん急だな。今日入ったのか?」
「そのようです。明日お持ちしますと申してますが、どうなさいますか?」
余程何かが気に入らないのか、グレンシールが口を開くまでに不自然に空いた間を気にすることなくクレイは話を進める。
口調だけは丁寧な、しかし組織のボスに対する態度としては最悪なそれにハンドルを握る男は気が気じゃないらしい、バックミラー越しにグレンシールを見ては隣を気にする様は少し、憐れで。
 仕方なく、頷く。
「二十分後には着くと伝えろ。久々に行くのも悪くない」
「分かりました」
携帯に短く呟いて、少し荒っぽい手つきでそれは閉じられた。
本当に珍しいその様子に、内心で天井を仰ぐ。
 つい三十分ほど前。大方の原因であろうマッシュの後ろに付き従っていたあの男とこの右腕は、どうも馬が合わないらしい。
「そこまで怒るな。下手な挑発だとでも思えばいいだろう」
「あからさますぎるんですよ。仮にも将来の取引相手に、あの態度はないでしょう」
確かにそれは言える。こちらの何が気に入らないのか、マッシュにたしなめられても前回のように態度が改められることはなかった。
「貴方に対してあんな態度をとる者なんて、あの男ぐらいですよ」
「当面の取引相手はマッシュ殿だ。気にするな」
「ですが」
「当分待って、それでも直らないようだったら始末すればいい」
 途端、言葉の応酬が途絶えた。
バックミラー越しに合う視線に薄く笑う。
「マッシュ殿もそれは分かってるだろうさ。あの人はこっちの流儀をよく知ってる。突然弟子がいなくなっても、何も言わずに商談をしてくれる人だ」
だから当分、我慢しろ。
「…分かりました」
未だ不機嫌は残ったまま、それでも納得の色を滲ませたそれに。グレンシールは目だけで笑った。
「キルキス達が徴収に行くだろ。今日はそれで我慢しておけ」
「っ、だから会場に行くって…!?」
「せいぜいストレス発散するんだな」
「……絶対キルキスに理由を訊かれるな…」
驚いたように振り返った右腕はすぐに微妙な顔になり、落とされた呟きは真剣みを帯びていて。抗争に行くでもないのに真剣に悩んでいるその声音に、小さな笑いがもれた。
運転席の男もようやく安心したのか、車は順調に夜の道を走る。思ったよりも道はすいていた。この分ならあと五分もすればつくだろう。そんなことを思っていると角を曲がり、見覚えのある通りに出た。途中信号につかまって、しかし直進してすぐのところである会場には案の定、その数分後には着いてしまった。
 表のレストランはあくまで表向きの入口でしかない、本当の会場はその裏の建物だ。地下駐車場に入って車から降りると、正面にあるエレベーターが開いて見慣れた顔が出てきた。
「支配人から聞きましたが、突然来られるなんて何かあったのですか?」
 やっぱりきた。
そんな顔をするクレイがグレンシールにはおもしろくて仕方ない。くつくつと笑って、キルキスに首を振って否定する。
「いや、何でもない。久々に徴収をやりたくなっただけだ」
「…は?ボスとクレイさんがですか?」
何を言っているのかと表情が言っている。柔らかい外見と同じく穏やかな性格の彼は共にエレベーターに乗り込みながらも信じていないのか、しきりに首を傾げて。
高く短い音と共に扉が開き、その脇で待っていた支配人が深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました」
絨毯のひかれた長い廊下に歩み出し、真っ直ぐ進む。その後をクレイと支配人が従い、キルキスは再度エレベーターにのりこんだ。グレンシールが足を止めて振り返る。
「標的が出てきたら知らせろ」
「え…ほ、ほん」
言いかけ、そこで音もなく扉は閉まり、キルキスの言葉は遮断された。再度歩き出して、クレイを見る。
「本気なのかって顔してたな」
「他の者達もきっとそう思いますよ。俺はともかく、貴方自らが出向かれるようなことじゃないでしょう。たかが徴収ですよ?」
「お前のストレス発散ぶりを見るだけだ。それに、いい刺激になるだろ。この頃出し渋っているようだしな」
「この上なく、いい刺激でしょうよ」
軽く息をはいて、クレイは天井を見上げた。キルキスの話を聞いて今ごろ驚いているであろう下っ端達の様子が手に取るように分かる。
 たかだか一カジノの売上金、その上納が遅れていることでキルキスが動いたわけだが、本来なら徴収なんて仕事は下っ端がやるべきことであり、幹部が動くようなことではない。実際、クレイがそれに携わるのもずいぶんと久し振りだ。それでもキルキスが動いていたのは、今回の相手が度重なる上納の遅延者だからだ。一回脅して来いという意味で彼をここに待機させていたのに、まさかこうなるなんて思いもしなかった。
 原因は、不機嫌を露にした自分なのだけれども。
ある部屋の前まで来ると支配人が先に立ち、その扉を開けた。そのまま奥にある一人掛けのソファにグレンシールが座る。特別な部屋だということが一目で分かる内装だ。その後ろに控えて目前に大きく切り取られた窓ガラスの向こう、眼下のステージと観客席を見下ろした。広いホールだった。ステージには進行役のオークショニアと他数人の人間、中央には今の商品なのだろう小箱がある。『猫』の保護の下に行われているオークションは、既に中盤に差し掛かっているようだった。オークショニアの声が、室内マイクを通して聞こえる。
「この中にいるんですね」
「オークションを楽しむ金はあっても納める金がないなんてのは、おかしな話だな」
「同感です」
数字賭博の集金人に売上金を持ち逃げされたので一週間待ってくれと言ったその男が、しかし今日向かったのがここで。大人しくしていれば腕の一本くらいで勘弁してやったのに、馬鹿な奴だと今朝キルキスと話したばかりだった。
「お待たせ致しました、こちらでございます」
一旦部屋を出て行った支配人が戻ってきた。手袋をはめたその手には一冊の本が。
ソファに腰掛けるグレンシールの横にやってきて静かに差し出した。
「ああ、確かにこれだな」
受け取って表紙を眺めるグレンシールに支配人が目礼する。
 時々、珍しい本がオークションに並ぶことがあった。それは色々なジャンルに及ぶが、今日はたまたまグレンシールが求めていた本が仕入れられてきたのだ。
そういう場合は連絡がよこされて自動的にグレンシールのものとなるが、大抵商品は一週間前までに納品されるのが常である。しかしオークションの開催日は今日であり、連絡を受けた時にずいぶん瀬戸際だなとグレンシールが感じたのは当然で。
それを訊けば、支配人は優雅な動きで頷いた。
「先日のイタリア人の屋敷から押収されたものでしたので。汚れなどの処理に一週間かかってしまいました」
なるほど、それなら今日でも仕方ない。
納得して、改めてそれに視線を落とす。既に絶版されているこの本は以前から読みたいと思っていたものだった。愚かとしか言い様のない者達だったが本の趣味だけはよかったらしい、思わぬところから出てくるものだと少し感心して、しかし一向に立ち去る気配のない支配人に顔をあげる。
「何だ?」
「…一週間前、表のレストランからこのオークション会場へ忍び込んだ者がいました」
支配人が静かに呟いた。
後ろに控えるクレイの気配が、僅かに変化する。
「それで?」
「部下によりますと、ここ二週間ほど影で貴方のことを訊きまわっていた者がいたそうです。主にこのオークションに貴方がいついらっしゃるのかを中心として調べていたとか。情報屋の誰もが口を割らなかった中一人、金に困っていた情報屋がでまかせから毎回いらっしゃると申したそうで、全て吐かせた後にこの者は始末致しました。…その情報屋が申していた外見や年齢からいって、調べまわっていた者と忍び込んだ者は同一人物とみてよろしいかと」
 歓声があがった。
下を見ると、まだ十五にも満たないような白人の少年がステージ奥から中央へと歩かされていた。いつの間にか商品は人間になっていたらしい。ライトに照らされた眩いステージの上、故意に太腿あたりまでが見えるような服を着させられた少年が怖がっているのが、ここからでも分かる。
 人身売買で、特に値がつりあがるのがあれくらいの年齢だ。
性別は関係なく、むしろ少年がいいという客は決して少なくない。特に人気なのが白人の子供で、逆に南アジアの子供はその手に入れやすさからあまり高値がつかないと決まっている。ここに来ることが出来るのは『猫』の傘下に下っている者だけでなく、『猫』と繋がっている政界財界の著名人達もいるが、より少年少女を好むのは後者で。
 そういう者達からして、あの少年は待ちに待った商品だった。
次々と値を競っていく声があがり、少年の表情が泣き出しそうに歪む。
無表情にそれを見やってから、グレンシールは確認するように支配人を見上げる。
「殺してないんだな?」
「はい。手前勝手な判断ではございますが、なかなかに良い素材でしたので。あれの次に出てまいりますが、よろしいでしょうか?」
「任せる」
常ならば捕えたところですぐさま始末するのに、この一週間生かしておいたということは、支配人自身がそれなりの値がつくとふんでのことだろう。商品の良し悪しを見極める者として、グレンシールはこの人物の腕を信頼していた。
短く言うと、支配人は一礼して下がっていった。
『ありがとうございます、二万ドルで落札です!!』
オークショニアの声が響く。まあまあの値段だ。
白いスーツを着た細身の男がステージへと上がり、進行役の男とはまた別の男に紙切れを渡した。少年が男に連れられてステージを下りると、会場内に次の商品の性別や年などのデータが流される。どうやら男らしい。年齢は二十。オークショニアの手が、ステージ奥に勢いよく差し出される。
 自分のことを調べまわっていた者。
それでも商品にする価値があるとあの支配人に思わせたのだ、それなりな顔はしているんだろうと、グレンシールは何気なくそちらに目をやって―――驚いた。
 ザワリと会場までが動いて、止まる。
屈強な男二人に挟まれて奥から出てきたその商品の足が、ステージ中央へ到達する。その顔が、ライトでより明らかになった。
「―――……」
 怯えることなく客席を見返す強気な目。
黒髪黒目だが、東洋人ではないその顔立ち。
屈強な男達に両脇を固められ、両手首を後ろ手で縛られているだろうに、それでもピンとはった背筋が、綺麗で。
 思わず、目を瞬いた。
ホール内は、水を打ったように静かで。異様な沈黙に包まれる。短い、だがとても長い一瞬。
それを破ったのはステージ右側、逸早く我に返ったオークショニアだった。
『……あ、そ、それでは、オークションを続けたいと思います』
そして少しずつ、ざわめきが大きくなっていく。次第にそれは歓声となり、窓ガラスでホールとは遮断されたこの部屋にいてもなお、うるさいと感じるほどに。
「…なるほど」
息を吐いて、背もたれによりかかる。中途半端に髪をかきあげて、呟いた。あの商品がグレンシールの命を狙っていることはほぼ確実で、それでも殺さずに、しっかりと価値を見出して商品にした支配人にも頷ける。
年齢は二十と高いが、そんなことは問題じゃなかった。それなりなんてものじゃない。あれは影で殺すには惜しすぎる。あの人間は、確かに―――極上の品。
 それは男に興味のない自分でさえも、見惚れるほどの。
『それではまず三万ドルから!』
開始値から、先ほどの少年を抜いた。しかし会場は返ってその破格の値段に湧き上がる。開始値が高いということは、それほどに質が高いということだからだ。更に今回は誰が見ても分かるような、稀な品で。
オークショニアの高揚した声の後、一斉に会場中から声があがって次々に値が跳ね上がっていくその様。異様な熱気に包まれて、それでもステージ上の商品の強気な目は揺るがない。それがますます会場の者達を加熱させる元だと思うと同時に、大したものだと感嘆したくなった。
通常は、あそこに立てば誰でも怯えるものだ。自分がどうなるのかという不安以上に、ステージ下からよせられる好奇や淫猥といった視線に恐怖して泣き出す。それすらも買い手側からすれば嗜虐性を煽られるだけなのだが、今の商品は怯えるどころか一切の揺れも見られない。殺したい相手―――グレンシールを探しているのか会場中を見渡し、しかしその目に浮かぶのはあくまでも強気だ。
別にそれだけの人間なら今までもいたし、感嘆するほどのものでもない。そういう商品は大体にしてサディスティックな人間に買われていくだけだが、あの商品は違った。
 誘われるというのか、なんとなく手にしたいと思わせるものがある。
逆らうことを許さず、ただただ従順な玩具を好む者にまでも屈服させたいと思わせるような。清廉とした空気のなかに、微かに滲む艶がそうさせるのかもしれない。
会場にいる人間のように汚れていないと一目で分かるのに、清らかとは断言できない、そんなものがあの商品にはあるのだ。
そしてそれを助長させているのが、あの殺気と言ってもよいほどの気迫。
 あの強い―――瞳。
高値がつかないはずがなかった。
「すごい人気ですね。…よろしいので?」
横に控えているクレイが僅かに身を乗り出す。
グレンシールの命を狙ってここに来たであろう人間をあのまま流すのが気にかかるのだろう、彼の声は僅かに硬い。
「構わん。せいぜい稼いでもらうさ」
マイクから聞こえる値は更に上がり続けている。
 オークションの落札価格、その三割が『猫』の懐に入ってくるこのシステムの中、人身売買に限るならあの商品は間違いなくトップクラスだ。
「どうせ買われた後は、薬漬けにされて死ぬまで玩具か途中で飽きられて捨てられるかだ。ここで買われた以上、薬漬けは避けられないからな」
買った直後から一日以内。その間に商品に必ず投薬することが、ここで人を買った者に義務付けられる最低限のルールだった。薬は生きている商品から逃げる術を奪い、思考力を削ぎ落とし、一年を過ぎるか過ぎないかの頃には運が良くて発狂か死しかない。先ほどの少年も、早ければ既にもう打たれているだろう。
 さてどこまで値が上がるのか。そう思ったところで背を向けた入口の扉が二度のノックの後、断りの声と共に開かれる。
「ボス、標的が出ます」
「分かった」
一つ返事をして、座り心地の良いソファから離れる。部屋を出ようとして、ふと後ろを振り返った。
未だに値は上がり続けている。最終的に幾らになるのか興味があったが仕方ない。だが少しずつ競りのスピードは落ちてきていることから、おそらくもう五分もすれば買い手が決まるだろう。
 あの強気な瞳が薬によって濁るのかと思うと少し―――勿体無いような気がするが。
「どうかなさいましたか?」
扉を支えているキルキスに「いや」と短く否定する。見ると、ちゃんと伝えに来たはものの未だその表情は半信半疑のままで。
「…本当に、行かれるのですか?」
信じられないというほどではないが、ややそれを弱くした感情がこもった言葉。
グレンシールはそれに答えず、立ち止まっていた足を扉の外、廊下へと踏み出した。クレイが続いて、そのまま三十分ほど前と同じ道を今度は引き返す。
 後方で扉を閉める音とキルキスのため息が、重なって聞こえた。







思い切り、舌打ちしたい気分だった。
レストランに入ってどうにかオークションに入りこもうとした矢先に見つかって、それでも商品としてオークションに出られることになるまではよかった。
両腕を縛り上げられて支配人と呼ばれた人物の前に出された時はここまでかと覚悟したが、じっと全体を見られた後に年齢や名前を訊かれたくらいで、そのまま一週間、ちゃんとした部屋と食事を与えられたことには驚いた。
そして数時間前。やけに薄い服を着せられた時は流石に眉を顰めたが、暴れることはしなかった。私物は捕まった時に全て取り上げられていたが証拠になるようなものは持ってきていなかったし、第一薄い服でも何でもナイフを隠すことくらいは容易だ。一般人には無理でも自分には、訓練をされたアレンには可能で、そのことに関して文句はない。
だがステージに出されてから、アレンはしくじったと痛感することになる。
 アレンの前、白人の少年が連れられて行ってからおよそ十五分後くらいだろうか、屈強な男二人に両脇を固められてステージへと連れて行かれた。
眩しいライトに目を焼かれて、視点が定まらないままそれでも必死で会場内を見回しているうちに、ようやく目が慣れて。会場内にいた人間はざっと千人弱ほど、広いホールだった。やけに静かだと思った直後、わっと騒ぎ出して視線が集中するのが分かった。
明らかに好意的とは受け取れない、言ってしまえば欲に濡れた視線しかなかったがそれはどうでもよかった。あの男がいるかどうか、それだけを必死に目をこらして探した。
 なのに。客席に、あの男はいなかった。
金髪はたくさんいたが、あの色を忘れるはずがない。普通の欧米人のそれとは違う、あの独特の色素が薄い色。情報屋にハメられたと思ったが表面には出さず、逆に自分に向けられる多くの視線を振り払うように目つきを鋭くさせた。
見定められているのかと思うと、全てが不愉快だった。
そんな自分の何が気に入ったのか分からないが、会場は更に盛り上がって。
 そして今、アレンは黒塗り高級車に乗せられている。隣には、先ほどアレンを競り落とした中年の男がしきりに何かをしゃべりながらも時折、こちらへ視線をよこしているのを感じていた。下品な想像でもしているのか、下卑た笑い声が癇に障る。
この中年男の部下が自分を競り落とした時、会場は大きく吠えた。一瞬、建物自体が揺れているのかと懸念したくなるほどに大きなそれは客席の歓声と拍手だったらしい、馬鹿な者の下で働く者はやはり馬鹿なのか、自慢げな表情でステージに上がってきた部下が係の者に長方形の紙を渡すと、アレンはそのまま地下駐車場へと連れて行かれて車に乗せられた。両手首は、縛られたままだった。
「悪いね。その両手首、薬を打ってからじゃないと外しちゃいけないんでねぇ」
居心地悪そうに身を捩ったアレンの態度で気付いたのか、脂ぎった顔を近づけながら中年男が囁く。妙に優しげな言葉遣いが粘っこい。吐く息が頬にあたって、気持ち悪さに肌が総毛だつ。
「薬…?」
しかし言われた単語に気にかかるものがあって、アレンは外へと向けていた顔を車内へ戻した。初めて反応したアレンに中年男は一瞬の間の後にやりと笑い、ますます顔を近づけてアレンを覗き込んでくる。
「やっとしゃべってくれたね。うん、客席からでも十分だったけど、間近でみると本当にきれいな顔をしてる。いいなぁ、君」
短い太った指で頤をつかまれそうになって咄嗟に顔を背けた。男は機嫌を損ねることなく、逆に「娼婦と違って、恥じらいがあっていいねぇ」などと馬鹿極まりないことをほざいている。怒鳴り散らしたい衝動を必死に抑えて、できるだけ後ずさりながら中年男を見つめた。
「あの、薬って…?」
嫌悪からきているその表情を怯えているものととったのか、中年男はぼてっとした厚い腹を揺すって品の無い笑みをその口元に浮かべる。
「あのオークションを仕切っている組織の方針でね。あそこで人を買ったら必ず一日以内に薬を打たないといけないんだ。ボクとしては、君はきれいだから薬なんて使わずにずぅっと側においておきたいんだけどねぇ」
そしてどのような薬を打ってどのような状態になるのか、べらべらとどうでもいいことを話し始める。こういうことを好むのは大抵は他人が恐怖する様を楽しみ、それを屈服させることを喜びとしている種の人間だ。この男も例に漏れず、ちらりちらりと横目でアレンの表情を確かめてはその口を開閉し続けている。
付き合っていられないとばかりにアレンが目を伏せると、想像力逞しい中年男は憂いの表情だと受け取ったらしい、口元を大きく歪めてその端から涎がたれた。
 どうでもよかった。
隣の男がどんな下世話な想像をしようと、アレンには関係がない。どうせ数時間も経たないうちに、この中年男は自分に殺されるのだ。懐に隠したナイフはいつでもとりだせる。自分を幾らで買おうがどんな目で見ようが、どうでもいい。
オークション会場で、次々と上がっていく値段に高揚する進行役の男を内心で嘲りながら。そんなに殺してほしいのならば殺してやる、とアレンが呟いていたのをこの男は知らない。客の値を言い合う声が凄まじくて、両脇の男達にも聞こえなかったらしい。
 あの男が、『猫』のボスがいないのなら。ならばせめて、『猫』に属している組織の奴を殺してやる。
オークションに来るということは、ある程度の大きさの組織のボスや幹部であるはずだ。自分が幾らで競り落とされたかは知らないが、随分会場が熱狂していたことから安い値段ではないのだろうと検討はつく。
テオの敵を討つことは出来なくても、少しでも損害を与えられればそれでよかった。少しでも、あの男に害が及ぶのなら。
 一ヶ月以上前、テオが亡くなったあの日から。テオが亡くなるその日まで、本当に自分は幸せで。
血がつながっていないのに、テオとはアレンのことを家族だと言ってくれて、本当に家族のように接してくれた。
周りの目なんて気にならなかった。どんなに白い目で見られようとも、テオとがいてくれれば、それでよかったのに。
テオが亡くなって、にかかる重圧は凄まじかった。それでも笑って、仕事をこなしていくが痛ましかった。何か手伝いたかったが、ただでさえ白い目で見られるアレンができることは皆無に近い。せめて食事をの部屋に運ぶくらいはと、料理人がつくった食事を盆にのせて角を曲がろうとしたその時、長い回廊の隅で交わされるその会話を、訓練されたアレンの耳が拾い上げた。
 テオを殺したのは『猫』という噂を。
テオが亡くなってから少しずつ広まっていたその噂の存在を、アレンはそれまで全く知らなかった。周りに白い目で見られながらも、テオやに公然と家族として扱われているアレンに、そんなことを言う者はいなかったのだ。
衝撃、だった。
それ以前に知っていれば、事前にから聞いていれば、信じなかっただろう。ただの戯言なのだと、がそう言ってくれていれば、アレンは何も思わなかったのに。
盆を抱えたまま、アレンは微動だにしなかった。数分なのか数十分なのか、自分では判断つかない時間の後にようやく我に返り。決意、した。
その日から頻繁に出かけるようになった自分を、が心配してくれていることは分かっていた。それでも自分自身を止めることは出来なかった。色々なところを駆けずり回り、ようやくオークションを突き止めたのだ。
命は惜しくなかった。テオの敵を討てるのなら、殺されても構わない。
そう思っているしそれは本当だが、こんなに必死になっているのはテオとへの気持ち以外に、テオを殺したのがあの男というのが大きいことを、アレンは自覚していた。
 優しいと、思っていたのに。
テオの店の回廊ですれ違ったあの日よりも更に前。一方的にだが、知っていた。優しい人なのだと思っていた。そしてあの日、どういう人なのか知って驚いて、でも彼に対するイメージは変わらず、返って物腰柔らかな態度は、アレンの中のとても良い方向に向かっていたのに。
 キッ、と意識の外で少し高い音がした。
俯いていた顔をあげると、アレン側のドアが外から開かれる。少し乱暴な手つきで、運転をしていたのであろう中年男の部下に車外へと出された。大きな建物の、目の前だった。
「ボクの所有する物件の一つだよ。さあ中へ」
言われなくとも、黒いスーツを着た部下に後ろから強い力で押されていたので行かざるを得ない。裏口らしきところから入って、明るい廊下を進む。
表の方から音楽と、人の声が聞こえてきた。カジノか何かなのだろうと検討をつける。更に奥へと進むにつれて照明が少しずつ暗くなっていくのは、多分先を行く中年男の趣味か何かだろう。どういう趣味なのかアレンには到底理解できないが、あんなオークションに参加するくらいだ、金に困っているとは思えない。
「ここがボクの私室だよ」
廊下の突き当たり、中年男はノブを握るとわざわざ振り返ってにやりと笑った。
続いてアレンが一歩入ると同時に入口のドアは外から閉められ、その前に誰かが立つ気配がする。先ほどの部下だということは容易く予想がついた。
室内は、やはりというか廊下よりもなお薄暗かった。中々に広く、しかし中央に鎮座している巨大なベッドに中年男はいなかった。ぐるりと視線を移動させると、悪趣味としかいえないようなスーツのジャケットとシャツを床に脱ぎ捨て、しかしアレンには向かってこずに奥のドアへと足を進めている。どうやらあのドアの奥はバスルームらしい。視線に気付いたのか、厚い腹をゆすりながらこちらに戻ってくる中年男の手にはいつの間にか上等そうなナイフがあった。
一瞬身構えようとして、だが中年男の持つそのナイフがアレンの両手首を縛っている細めの縄を切り落としたことに驚く。数時間ぶりに自由になった両手の感覚に開放感を覚えながらも相手を見れば、中年男は下卑た笑いをたてながら囁いた。
「いつもは薬を打ってからなんだけど、君はきれいだからね。ボクが戻ってくるまで少しの間、自由をあげるよ」
ねっとりとした息を吹きかけて、再び中年男は奥へと向かう。アレンがそんなことをするはずがないと思っているのか途中ナイフをテーブルの上に無造作に置いていく。
上半身裸のその背がバスルームへと消えてから、アレンは両手首をブラブラと揺らして呆れのため息をついた。
 遅くとも数十分後には殺されるのに、いい気なものだ。少しの自由をなどと言っていたが、わざわざそう口にすることでアレンを怯えさせたかっただけだろう。くだらないと切り捨てて、とりあえず手近にあるベッドに腰を下ろす。
テーブル上のナイフは確かに見た目は上等だが、使えそうにはない。見たところ切れ味は良さそうでも、刃自体が弱いかもしれないからだ。
やはり自分のものの方がいいだろうと隠してあったナイフを取り出して刃を立てると、その側面に映っている自分の表情は少し、緊張しているようだった。
 息を吸って吐き、ナイフを再び懐に隠す。
何を緊張しているのだろうか、むざむざあの中年男の思惑通りになるつもりは更々ない。心臓を一突きすれば、人は簡単に死ぬのだ。
例えナイフがなくとも、殺せる自信はある。
人の急所や武器がなくとも確実に相手を殺せる方法、その実践まで。を守るため、アレンはそれらを特に長く教えられたのだから。
縛られていた両手首が、少し痛んだ。
そしてカチャリと、バスルームのドアが開く音がする。顔をあげると、腰にタオルをまいただけの格好の中年男が視界に入ってきた。既にベッドにいるアレンに厭らしく嗤い、太った腹を揺らしながら近寄ってくる。
「いいねぇ、そういう素直な態度。無理やり組み敷くのもいいけれど、やはりこういうのは合意でないとね」
「……」
馬鹿なことをほざくなと心の内だけで呟いて、ただ相手を見やる。アレンの前まで来た中年男が、頬を撫でてきた。ぞわりと何かが背筋を這い上がって、これが生理的悪寒なのだと生まれて初めて知る。
 殺すのなら、相手が自分に覆い被さってきた時。その時が一番、人間は無防備になる。
心臓を突き刺して頭を蹴り倒し、素早く枕かベッドシーツでも口に丸め込めば、外にいる部下も気付かないはずだ。例え声があがったとしても一瞬で、アレンが何の目的でこの部屋に連れられたのかも知っているはずだから、自分の上司の一瞬あがる大きな声を勝手に勘違いしてくれる可能性はかなり高い。窓があればそんなことも気にせず殺せるのに、生憎この部屋に窓は一つもなかった。
この中年男を殺した後、ドアの前に待機している部下も殺して逃げるしかない。そう思った時に頬を撫でていた手がゆっくりと肩へと伝って、グイと意外に強い力で押された。
「…っ!」
倒れたアレンの上に、中年男が嬉々として乗りかかってくる。分かってはいたがやはり、気色悪いとしか思えない嫌悪感がこみあげた。
それをどうにか抑えて懐のナイフを取り出し、そしてその心臓へ突きたてようとした瞬間、ベッドサイドにある電話が不快な音を立てた。ぴくりと動きを止めた相手に、思わずアレンもその手を止める。
電話など無視するかと思ったのに、中年男は忌々しげに電話を一瞥した後、アレンの上から身を起こしてのろのろと片手で電話を取った。
「…何だ。今夜は滅多なことでは電話してくるなとさっき言っ―――」
 そこで、中年男の声は遮られた。
けたたましく開かれたドアが壁に叩きつけられるバンという音と共に、その前に陣取っていたと思われる部下の焦ったような声が、室内に響く。
「ボス!!あ、あの方が…!!!」
言い切らないうちに、その背後から影が差した。廊下も薄暗いとはいえ、この部屋よりは明るい。影の主は、蜂蜜色の髪の若い男だった。一般の男性と比べたら、やや長髪ともいえるような長さの。
その男は少し目を凝らすように暗い室内を見回して、ベッド上にいるアレンを見、そして中年男を見つけると横を―――室内のアレンからは見えない壁の向こう、廊下にいるのだろう誰かを振り返る。
「いました。どうやら、お楽しみの最中だったようですが」
そして再度、男の視線は中年男へと向けられる。
 突然の出来事に、アレンは混乱していた。
中年男を殺そうとしたその矢先、いきなり現れたこの青年は何者なのか。あまりにタイミングが悪すぎると舌打ちしたい気分で、そこでようやく、車内でもベラベラしゃべっていた相手が静かなことに気付く。
てっきり邪魔をするなだの何だのと騒ぎ出すかと思ったのに、言葉を遮られてからずっと黙ったままだ。不審に思って横目で見ると、中年男は驚愕の眼差しで蜂蜜色の髪の男を見つめていた。手に持った受話器からは向こうの相手がしきりに何か言っているのが聞こえるが、言葉として拾うことはできない。
アレンが視線を入口に戻すと、男は既に室内に入ってきていた。暗い部屋を呆れた表情で見回す。
「よくもまあ、こんな中途半端に暗い部屋を。視界が悪いんですけど、ライトはないんですか?」
「……あ…あ、あります!おい、早く照明を!」
焦ったように声を張り上げると、入口付近に佇んだままだった部下が慌てて壁のスイッチを押した。幾度かちらついたあと、一応天井に設置されていたライトが一瞬で室内を照らす。
眩しさに眉を顰めて、アレンは下を向いた。その耳に、二人の会話は当然届く。どうやら金関係のトラブルらしいが、驚いたのは二人の態度の違いだった。
蜂蜜色の髪の男は遥かに年下だろうに、落ち着いた彼の物言いに中年男はひどく縮こまっている。
「うちの下っ端が来ても全然取り合ってくれないそうじゃないですか。困るんですよ」
「そ、それは本当に申し訳ないことで…。まさか幹部の貴方様がいらっしゃるとは思いもよらず」
驚いた。
中年男の焦り具合からして余程大きな組織の者なのだろうとは思っていたが、あの若さで幹部だとは思わなかった。顔を上げればこちらを見ている綺麗めな造りの顔が明るさに慣れてきた目に映る。とはいってもアレンを見ているわけではないその表情は、呆れが多々滲んだもので。
「部下に泣きつかれましてね。ボスに顔向けできないと言われたので、俺が来たわけなんですが」
「い、今すぐ出します!少々お待ちを…!!」
そして部下に視線を投げるが、その男はこちらを見ていなかった。照明のスイッチを押した際、これからの流れが予測できて先に金の用意に走ろうとしたのだろう、室内から廊下に一歩踏み出したままの体勢で、固まっていた。
 これ以上は無理だろうと、そう思わせるほどに、目をかっ開いて。
中年男は舌打ちして、すぐさま愛想笑いを浮かべる。
「申し訳ありません、今すぐに用意させますので…。それであの、どうかあの方には内密に…」
「ああ、それは」
「ぼ、ボス…」
答えようとした蜂蜜色の髪の男のそれに被さるように、未だ固まったままの部下がか細く声をあげた。今度は舌打ちせず、だが睨みつけた先の部下はそれでも自分の上司を見ようとしない。
さすがにその様子におかしいと思ったのか、中年男の視線が蜂蜜色の髪の男に戻った。向けられた相手はにこりと笑って。
「もう、遅いんですよ」
入口を振り返り、「ボス、どうぞ」と呼びかけた。それに伴って、入口にいる中年男の部下が室内へと足を引いた。気を遣ってというよりは反射的にという言葉が合いそうな、ぎこちない動きだ。
 ベッドの上に座したまま、アレンは入口を見つめた。
最初に見えたのは、黒い靴の先。ついで隣の男が着ていたものとは一目で違うと分かる、高級そうなスーツが見えて。
徐々に視線を上げていって、その人物の顔を捉えた瞬間。
アレンは息を呑んだ。
そのボスと呼ばれた人物は、室内にいる蜂蜜色の髪の男同様、まだ若かった。少しは年上だろうが、三十には届いていない。自分の部下の話の運び方に、苦笑しているようだ。
「部屋の外で待ってろって言ったのはこのためか、キルキス」
「当たり前です。貴方をこんな輩の目にそう易々といれられるわけないでしょう」
蜂蜜色の髪の男―――キルキスというらしい―――の言葉に苦笑を深めると、室内に足を踏み入れて僅かに金髪が揺れる。
その色は、普通の欧米人とは少し違うそれで。黄味は強くなく、だがプラチナブロンドというものでもない。色素自体が薄い、独特の。
 グレンシール、だ。
『猫』の、頂点に立つ男。アレンがずっと、探し続けていた男だった。

























2005 9 8
視点がアレンに移る前、グレンがキルキスに答えずに廊下に出たのはシカトじゃなく行動で示したということです。