ドクドクと、心臓が脈打つ。
それが緊張しているせいなのだと気付いたのは、横の中年男がベッドから飛び上がった振動でだった。アレン同様呆然としていたのにいつの間にか我に返ったらしい、「あ、あ」と呟いたかと思ったら突然文字通り飛び上がり、それがベッドの端だったためにその重心を支えられず、床に落ちて不様な音がした。それでも部屋の入口に佇む男への意識が痛みよりも勝るのか、そのまま這いつくばってキルキスの前で止まり、震えながらその後ろの相手を見上げる。
 グレンシールは。いつの間にか苦笑をおさめていた。
涼しげな表情で己の部下の前に四つんばいになっている男を見下ろし、何の感情も浮かべていない。重い沈黙が満ちて、しかし中年男は震えたまま。少しも動こうとはしなかった。
ふう、と軽い息がキルキスから落とされる。
「とりあえず、何かないんですか?」
「も…申し訳、ございません…」
仕方なくといったような促しに、蚊の鳴くような声が中年男の口から漏れた。静まり返った部屋で小さなそれは十分に聞こえたはずだが、グレンシールの表情は変わらない。緊張している自分の心臓の音だけが、アレンの耳にうるさいほどに響く。
これからどうなるのだろうか、という心配からではない。そんなことはどうでもよかった。重要なことは、グレンシールを殺せるかどうか。
殺したかった相手が目の前にいるという事実はアレンの体に無用な力をこめさせたが、それを発揮するのは難しいことを瞬時に悟る。
 隙が無いのだ。見事なほどに。
キルキスの目は中年男に向かっているし、グレンシールはといえばそれの存在すらも気にしていないような、淡々とした態度で。中年男は言わずもがなその部下も、意識はグレンシールへと向かっている。誰一人アレンを気にしていないようなのに、隙が無い。グレンシールはもちろん、キルキスの立ち位置が絶妙なのだ。アレンのことを警戒しているわけではないだろうが、日頃からの習慣なのか自然とグレンシールを守れる―――いざとなれば盾になれる、そんな場所にいる。何があっても対応できる、距離に。
グレンシールを殺せたなら、その後はどうでもいい。殺されようが何をされようが、満足だ。そう思うのに、部屋のドアがけたたましく開かれた瞬間、咄嗟に隠したナイフを再度取り出して刃を立て切りかかれるような、時間にしてたった数秒の隙が見つけられない。
 駄目か。
目を伏せようとしたその時、何かに気付いたかのようにグレンシールが後ろを振り返った。
開かれたドアの前、廊下に新たな男が立っていた。見覚えのあるその顔に驚く。グレンシールの右腕の、クレイだ。テオの店で会ったあの日、グレンシールの後ろに控えていた。
「終わったか」
「一般人は全て。そちらは…あれ、まだ何も?」
室内を見て、クレイは意外そうな表情でグレンシールとキルキスを交互に見やる。
「お前がやらなきゃここに来た意味がないだろ」
「あー、まあそうなんですけれども。キルキス、お前は?」
「俺もいいです。が、少し長くして頂けますか。ボスに対する礼儀がなってませんので」
「了解」
四つんばいで座り込んでいる中年男を見下ろしながら言うキルキスに苦笑して、クレイが中年男の目の前に進む。三人が何の話をしているのか当然アレンには分からず、僅かに首を傾げる。
 瞬間、がっと鈍い音がした。
次いで重い何かが床に倒れる音がして、それが何なのか認識してようやく、アレンの目が見開かれる。
 中年男の鼻は、ひしゃげていた。
「っ…!」
漏れそうになる息を咄嗟に押さえて、目の前の光景を見つめる。鼻骨が折れているのは確実だった。
顔面を靴先で蹴りつけたクレイは飄々とした表情のまま、投げ出された中年男の右手を踏みしめる。瞬間的にもれた苦痛の呻きに、声が重なる。
「うちもね、慈善事業じゃないんで。上納を何回も遅れられるといい加減、上が動かざるを得なくなるんですよ」
「っぅあっ!」
ギリギリと中年男の右手、その骨の軋む音が聞こえるような気がした。痛みから逃れようと必死に太い腕が動くが、黒い革靴の下にある右手は動かない。
 もしかして。
目の前の状況からして十人いれば十人が思い浮かべるだろうその光景が、同じようにアレンの脳裏に浮かんだその一瞬後。
「!!!!―――……っ!!」
声にならない叫びが中年男の喉から突き出て室内に響いた。
それに交ざって高くはない、しかし太いものが折られた時ほど低くはない、細く硬いものが粉々に砕ける細かな音が、アレンの耳に届く。
 首がガクガクと揺れる様を見下ろしてクレイは足を退け、しかし上から退いたわけではなく、もう一方の手に移っただけだった。アレンが驚く間もなく、中年男の左手は同じように踏み潰されて。妙に高い音が、耳に残った。
「で、本当はキルキスだけのはずだったんですが、色々ありまして。急遽俺が相手をさせてもらうことになったんです」
 分かりました?と見下ろされる中年男は、既にしゃべれる状態ではない。
ぱくぱくと口を開閉するその顔色は、顔面の下半分を鼻血で赤く染めているにも関わらず白い。異常なほどに呼吸が早く、タオルを腰に巻いただけの全身から大量の脂汗が噴出している。
そんな状態にさせた本人であるくせに表情を変えようとしないクレイは、中年男が聞いていようがいまいが関係ないようだった。肉ばかりのわき腹を蹴り上げられて、中年男が悲鳴をあげる。
「俺としては無抵抗の人間を甚振ってもストレス発散なんてできないんですが、まあやらないよりはマシなので」
淡々と話しながら、クレイは勢い余ってごろりとうつ伏せになったその背中を何度も蹴りつけた。急所は避けているのか悲鳴は途切れることなくあがり続け、ただ折れた両手で頭を庇うことくらいしか、中年男はできなかった。
徹底的に甚振り続けるクレイが、止めをさせるような場所は一度も蹴っていないことに気付きもせずに。ただひたすら頭を庇う。
 悲鳴は徐々に懇願へと変わっていった。
「…ゆ…るし……っ…やめ…っ」
かろうじて聞こえるそれにようやくクレイは動きを止めて、中年男の脇にしゃがむ。髪を掴んで無理やりに顔をあげさせる動作に揺らぎはなく、蹴り続けている間も調節していたのだろう、朦朧としていても気絶はしていないことを確信しているようだった。
 鼻から溢れ出している血が床に小さな血溜りをつくり、その面積が徐々に増えていく。上を向かされたことによって少量が宙に舞い、離れた床を鮮やかに色づける。涙と鼻水、そして汗でぐしゃぐしゃにその顔は汚れていた。
「分かってもらえました?自分がやったこと」
笑みを浮かべて言われ、中年男がどうにか頷こうとする。しかし強い力で髪を掴まれ、強制的に上を向かせられている態勢で頷くことは難しい。逡巡したその微かな間に、中年男の横顔を衝撃が襲った。そのまま力を加えられた方向に倒れ、ぶちぶちと嫌な音がする。
 中年男の髪を掴んでいた手には、少ないとはいえない毛髪が握られていた。
「ァが…っ!ヒ…ひいぃい……!」
「早く答えて下さいよ。待たされるのは好きじゃないんです」
鋭く拳を叩きつけたクレイの足元に、白い何かが転がる。歯だ。殴られた拍子に折れたのだろう、最早中年男は鼻だけではなく口からも新たな血を滴らせていた。
「も、し訳……ござ…せ…っ…申し訳……っ」
ぶるぶると震えて縮こまり、ひたすら許しを乞う相手を見下ろしてクレイは立ち上がる。掌を開いて毛髪を落とすと、汚いものを触ったとばかりに両手をはたいた。
 傍で見ていたグレンシールが笑う。
「ストレス発散になったか?」
「ほんの少しは。キルキス、これくらいでいいだろ?」
「まあ、これくらいで許してやりましょうか」
からかうような上司のそれに苦笑し、仕方ないとばかりに息を吐く部下にはやれやれと笑う。その様は、たった今までの暴力が嘘のように朗らかなもので。
アレンは蹲っている中年男から目をそらした。
自分が殺そうと思っていた相手ではあるが、こんな風に甚振るつもりは毛頭なかった。脅すのならストレートにやればいいものを、無駄に相手を痛めつけようとするその精神が理解できない。その上、ストレス発散になったかなどと訊くなんて。
 外道め。内心で罵る。
だが許してやるといったキルキスの言葉に微か、体の力が抜けたのは自覚していた。目の前で行われた暴力に身が竦んでいたわけではないが、中年男の鼻や口から溢れている血に少し驚いた。苦手というわけではないけれど、あんな少量とはいえないほどの血を見たのは初めてだったから。そんな自分が悔しくて、目を伏せる。
「さて、それじゃあさっさと終わらせて帰りましょうか」
暢気なその声に、咄嗟に矛先が自分へ向かったのだと思った。ナイフを握ろうとしてそこでふと、男達の視線が自分に向かっていないことに気付く。見ている先には、蹲ったままの中年男が。
 先ほど許してやると言ったのに、何を終わらせるのだろうか。
アレンの疑問は数瞬後、クレイの行動によって明かされた。
 懐に手をいれて、握られているのは黒いもの。カチリと小さい、何かの音がして、その黒いものの先を床に蹲った中年男の頭へと向ける。
頭を庇い続けながらもひたすら謝りの言葉を呟いている中年男は、そのあまりに小さな音に気付いていないようで。
 事故に遭った人間は皆、その直前がスローモーションのようだったと話す。
まるでそれみたいだと片隅で思いながら、ゆっくりとしたその動作をアレンは見つめた。
引き金にかかった指が、くんと引かれて。
それと同時に生じた音が、建物全体に響き渡った。
―――嘘だと思うにはあまりに、重い。
 何で。
「結構響きましたね。やっぱりサイレンサーつけるべきだったかな」
銃を懐にしまいながら、クレイは一人ごちた。グレンシールが緩く首を振る。
「一般人は全員帰したんだろ。だったら問題ない」
「そうですよ。上納が遅れたらこうなるって、カジノにいる者達も分かったでしょうし。いい刺激ですよ」
それが冒頭の会話の続きだということに、アレンは気づかなかった。たった一瞬のあの音が、耳の奥で木魂していて。
 初めて。人が死ぬ音を、聞いた。
一瞬だったのだ。それだけで、全てが終わった。
アレンのいるベッドの上、そこから床に跪いた形で絶命している中年男の顔は見えない。見えるのは背中と尻、足だけで、ちょうど頭は肩に隠されて視界に入らないそのアングルにアレンは感謝する。俯いて無理やりに視界から中年男を追い出した。見てしまったら、終わりな気がした。何が終わるのか分からないが、ここにいる理由がなくなってしまいそうな気がして。
早くなった呼吸を落ち着かせるために、静かに深呼吸をする。
「それで、ベッドの男の子はどうなさいますか?」
キルキスの指摘に肩がびくりと震えた。今度こそ彼らの視線が、アレンに向いた。一際強く、心臓が鳴って。
「…男?女じゃないのか」
「俺もそう思っていました。…こいつ、男もいけたのか」
ベッドを見ようともしなかったのに誰かがいることにはとっくに気付いていたらしい、グレンシールとクレイが意外そうな声をあげる。
こいつとは中年男のことか。どうでもよかった。緊張して唾を飲み込む。殺されるのだろうか。
 目の前で行われた人を殺すという行為に、アレンは完全に目的を忘れてしまっていた。
「部屋に入った時に見えたんですが、男の子でしたよ。多分、今日のオークションで買ったのではないかと」
「オークション?」
微妙にクレイの声音が変化する。俯いたまま、それを聞く。キルキスは何も感じていないのか、「ええ」と簡素に答えるだけで。
肌に突き刺す視線が痛い。俄か、空気が重くなったような気がした。
「……顔が見たい」
少しの間の後、グレンシールが呟く。思っても見なかったその内容にアレンの緊張が一瞬とけて、倍となって帰ってきた。
 顔が見たい?何故。
コツ、と靴音がした。
ギシリとスプリングが鳴って視界の端、ベッドに置かれた右手が見えた。心臓が、痛いほどに打って。
逃げたかった。どこへ行くなんて明確な意思は無く、ただここから逃げ出したい。しかし恐怖から足は竦み、もしそうでなくても目の前の男達をすりぬけて部屋を出るなんてことは不可能以外の何者でもない。
 ベッドにアレンのものではない影が落ちた。キルキスだ。
「顔をあげてもらえませんか?」
間近からの丁寧な口調、しかし安堵を感じることなんてできるわけがない。恐怖からそのまま顔をあげようとして―――不意に、の笑顔を思い出した。
そしてその隣にたたずむ、アレンが一番尊敬している人。
「……」
再度、唾を飲みこむ。自分が今ここにいるその目的を思い出した。
 アレンがここにいるのは、全て。
こぶしを握りこんだ。極度の緊張からきている二の腕の震えを、少しでも押さえたかった。深く息を吸う。こんなところで、死ぬわけにはいかない。
 死ぬんだったらせめてその前に、グレンシールに一矢報いなければ。
「…あげてもらえませんか?」
再度の促し。
―――従わなかったら、何も出来ずに殺されるだけだ。
唇をかみ締めて、ゆっくりと。顔を上げる。
その視線は真っ直ぐに、グレンシールを。
「………」
 切れ上がった双眸が僅かに細められる。中年男を見下ろしていた時のように無表情だったそれが、アレンが顔をあげたのを認めて口角があがり、緩い微笑を刻んだ。
見つめるというよりは睨んでいるといった方が正しいほどのアレンの視線を平然と受け止めて、横のクレイに何かを耳打ちする。
「っそんな、何を」
「いいから」
「ですが…」
「クレイ」
「…分かりました」
何を言われたのだろう、僅かに焦りを見せたクレイはそれでも諭されるかのように名を呼ばれて、渋々頷く。ドア近くの壁際で未だ直立したままの中年男の部下を見やり、足元を指差した。
「これ、持っていってもらえるか」
指示されたそれが何を意味するかなんて、見なくても分かる。自分の上司が甚振られ殺されるのを黙ってみていた中年男の部下は、必死に首を縦に振ってそれに近づいた。もう動かないその物体の両足首を掴んで、ドアの外へと引きずっていく。自分の組織のボスを殺した相手に反撃するどころか唯々諾々と従うその様は、『猫』の強大さを如実に表していて。
 中年男の顔がごろりと揺れて、視界に入りそうになるところを咄嗟に顔を背けて目を瞑った。見たくない。
「悪かったな」
真上から聞こえた声そのものにというよりはその内容に顔をあげて、目を瞠る。いつの間にか、グレンシールがすぐ間近まで来ていた。その後方でドアの閉まる音がして、クレイと側にいたキルキスまでもがいなくなっていることに気付く。
驚いてベッドの上を後ずさるアレンを、グレンシールは苦笑を浮かべながら見下ろしている。
「お前を買った男だろう、あいつは。せっかくの買い手を、悪かった」
「―――」
 一瞬何を言われたのか理解できなかった。
何を、言っているのだ。平気で人を殺したくせに、何でたかがそんなことを。
強張っていた全身が、いきなり熱くなる。緊張が一気に解けた。
 謝るなら。
謝るなら、テオに謝れと叫びたかった。テオの笑顔が脳裏に浮かんで、アレンの腕に力が急激に戻っていく。震えていた二の腕はおさまり、心臓は怒りによって更に強く鼓動を打つ。殺気が、抑えられない。
こちらを見下ろしているグレンシールは微笑しているまま、何の警戒も見られなかった。
 今なら殺せる。
クレイもキルキスも、グレンシールが部屋から出したのだろう。何らかの理由があるのだろうが、アレンにとっては好都合なばかりだ。
「経験は?」
 隠したナイフに手をやろうとしたところで、不意に問い掛けられる。言葉は分かる、しかしその意味が分からなくてアレンはきょとんとグレンシールを見上げた。
「経験、って…」
何の経験だ。そう言おうとして軽く開きかけた口の中に何かが入ってきた。氷のようなはっきりとしたそれではないが少し冷たい、これは。
「っ!?な、に…っ」
「これなら大丈夫そうか」
驚愕するアレンに構わず呟く。口内にあったそれが抜かれ、その正体に目を見開いたのがいけなかった。その隙を突いて今度は唇に何かが被さってきて驚く間もなく、先ほどとは違う冷たさの、柔らかいものが口の中に侵入してくる。
「…っ、んぅっ…!」
侵入してきたそれはアレンの口腔を蹂躙してかき乱し、呼吸を奪う。苦しさに涙がにじんで、振りほどきたかった。しかし口から伝わる頭の中をかきまぜられるような感覚が邪魔して力が入らない。
 今アレンの口内を自由に動き回り、舐め上げて、アレンのそれに絡ませてくるのは間違いなくグレンシールの舌、だ。先ほど一瞬で抜かれた指の時とは比べ物にならないほどの長い時間がすぎる。
 グレンシールに口づけられているのだと、一秒ごとに強く、アレンに思い知らすかのように。
「はっ……ぁ、っ…」
「慣れてないな」
「っ!?」
さんざん舌を絡め取られ、ようやく解放されたと目を開けたアレンの視界がいきなり九十度かわった。ベッドに押し倒されたのだと気付いたが既に遅い、グレンシールが素早く上に覆い被さってアレンを見下ろしている。からかうように呟かれたセリフに怒る暇もなかった。
 身を捩ろうとしてもいつの間にか適所を押さえられていたらしい、体は動かず両手首さえもシーツに縫いとめられており、有り得ないほど最悪な状況だ。いくらアレンが鍛えられていても、こうも要領よく押さえられていては何もできない。
離せとばかりにグレンシールを睨みつけようとすれば、相手の視線はアレンの腰あたりに落ちていて。
「何見て…」
「ナイフ、ね。よく会場で取り上げられなかったな」
 ただでさえ生地が少ない服なのに、気付かないうちに肌蹴られていたのだろうか。
ビクリと振るえそうになった体を、全神経を集中しておさえた。普段は柄に刃がおさめられている一般的なそれを、片手で危なげなく扱うグレンシールの表情に警戒の色はない。スラムやチャイナタウンに入れば子供でもナイフを持っているこの街だ、特に訝しむことはないだろうがそれでも相手にナイフが渡ってしまうのはまずかった。
全身が心臓になったかのように、大きく強く、そしてゆっくりと高鳴る。
「…いつも持ち歩いてるから、ないと落ち着かなくて」
「会場でチェックがあったはずだが。うまく隠したのか?」
パチンと柄に刃をしまい、視線を合わせられて頷く。
実際、嘘ではない。忍びこんでいた自分にというのは分かる、だが自分の前にステージに連れて行かれた少年にさえも執拗なほどのチェックが繰り返されていた。商品である少年に対してもあそこまで厳しいのだから、客には更に厳しいチェックがかけられるのだろう。
「…まあ、別にいいけどな」
再度ナイフを一瞥したグレンシールの言葉と表情から、相手が興味を無くしたことを知ってホ、と息をついた。その瞬間。
「こんなもので殺されるほど、間抜けじゃない」
ザッ!と左耳のすぐ横で風が走る音がした。
目を瞑る間もなく振り下ろされたそれを呆然と見れば、たった今刃をしまったはずのナイフが深々とベッドに突き刺さっていた。あの一瞬で、と思うと同時にようやく言葉の内容を頭が理解する。
 もしかして、最初から。
「部屋に入った時からあんなあからさまな殺気を向けられて、気付かないとでも?ずいぶんと余裕だな」
「っ…!」
言っていることは嘲りのそれなのに、声音には硬質な響きしかない。たったさっきまでとえらく違うその激しい変化に、心臓を何か冷たいものに掴まれたような感覚が走った。手首を掴む手に力をこめられて、痛みに顔が歪む。
「お前誰だ。何で俺を狙った?」
ものすごい力だった。骨の軋む音が腕を通して聞こえ、それでもうめき声だけは出すかと耐える。この男にだけは醜態をさらしたくなかった。至近距離にある涼しげなその顔を睨みあげ、問われたことに答える気もないということも含め歯を食いしばる。更に力がこめられ腕が悲鳴をあげたが、あと少し力をいれられたら折れるのではないかというほどに強いそれにも、アレンは屈しなかった。
 グレンシールを殺すと決めた時から、死は覚悟していた。先ほどは揺れたが、今は再びその覚悟ができていた。例え銃を突きつけられたとしても、質問に答える気もない。自分の素性を明かすということはすなわちに危険が及ぶということで、それだけは絶対に守らねばならないことだ。
 に害が及ばないのであれば、このまま殺されても。
そんなアレンの意思に気付いたのかグレンシールの目が細められ、腕に込められていた力が抜けた。その手はそのままアレンの胸へとおりて。
中途半端に肌蹴られていた服を、胸の上までまくりあげた。
「っな…!」
ぎょっとする。まさかバレた後も続けられるとは思わず、両手でグレンシールをはじきとばそうとして、掴まれていた左手がしびれて感覚がないことに気付く。
易々と右手首を捕えられて、痺れたままの左手と頭上で一まとめにされた。
「…放せっ!!」
「強気だな。……そこまで俺を殺したいか?」
「当たり前だ!」
「だったら何で腕を放してやった今、ナイフをとらなかった。お前の顔のすぐ横に、刺しておいてやっただろう」
咄嗟に、言い返せなかった。
 たった今。
ぐちゃぐちゃになった頭で思い返せば、本当に僅かな時間だったが、確かに左手は自由になっていた。
「……っ」
目線をずらせばナイフの柄が簡単に視界に入る。
あの時は服を捲り上げられて、両手はグレンシールを撥ね退けようと動いた。だが、こんな近くに。あったのだ。
 グレンシールを殺せる、ナイフが。
「本当に俺を殺したいのなら、自分の身よりもナイフを選んだはずだ。だがお前は自分の安全をとった。…所詮、その程度だったってことだろう」
「違…」
 多分な沈黙は、時としてどんな言葉よりも相手を追いつめる。
ナイフの位置、たった今自分がとった行動。アレンが理解するには十分すぎる間をおいて、グレンシールは嘲りと事実をない交ぜにした現実を突きつけた。
 違うと、言いたかった。だが言い切ろうとする前に喉が詰まって声がかすれる。そんな体の反応が、何よりも自分自身が肯定しているようで。
グレンシールの言葉がざわざわと、アレンの内を掻き乱していく。
そんなこと考えていなかった。ただ咄嗟に、両手が動いただけで。しかし本能的なその行動が何よりも自分を示しているのではないかという疑心が生まれる。嫌だ。
「っ、…?」
深い意識の底に沈もうとしたその時、アレンの体を変な刺激が襲った。今まで感じたことのない、変としか言い様のないもの。顔の横にあるナイフ見たままだった視線をその刺激の起こっている場所―――胸元に移すと、グレンシールの指が胸の突起に触れていた。指の腹で押しつぶし、そのまま円を描くようにまわして、爪の先で軽くひっかく。
 触れているなんて、そんな軽い表現ではふさわしくないほどに。
「やめ…何して…!」
「分からないのか?」
セックスだよ。
 耳元で囁かれて、アレンはこれ以上ないほどに瞠目する。見上げたグレンシールは嗜虐的に笑っていて、その瞳は敗者を見下すものだった。そこに入る感情なんてない。自分に刃向かってきた愚か者を弄る、ただそれだけのために。
グレンシールの手がベッドサイドに伸びて、ライトのコードを引っ張った。そのせいでライトが床に落ちて大きな音を立てたが気にもとめない。コンセントに差されていなかった先を器用に手繰り寄せ、それを頭上で一まとめにされているアレンの両手首にまきつけていく。手が離された瞬間に左右に引っ張っても、強く結ばれたそれはアレンの肌に食い込むだけだった。
指が、再び胸の突起をまさぐる。
「!っやめろ…っ」
変なのだ。グレンシールがそこに触れるたびに、変なものが背筋を駆け抜ける。そして腰へと響くそれが何なのか、アレンは分からない。ただやめてほしい。
片手は突起をいじったまま、もう一方の手がわき腹を撫でて腰へと落ちる。下半身を覆うズボンの中に容易く侵入し、下着の上から腰骨をなぞった。ぞわ、と何かが背筋を這い上がって、それを振り払うようにアレンは身を捩った。叫ぶように声を張り上げる。
「俺、は…女じゃないっ!」
「見れば分かる。…中年男も、お前を犯ろうとしてただろうが」
「っ、やっ…!!」
冷たい指に直に触られて、アレンの肌が総毛だった。悲鳴は喉の奥でつまって、息だけが吐き出される。下から掬い上げるように包み、グレンシールはアレンを引き出していく。胸から生じるそれと相まって熱いその感覚に、アレンの顔が羞恥で真っ赤に染まった。
「や、ぁ…っ、ふ」
 ハ、と呼吸が乱れていく。ベッドシーツに顔を埋めて必死に顔を背けるが、声を完全に噛み殺しきることができない。それが更にアレンの羞恥心を加速させていく。
アレンを弄り続けるまま、グレンシールは一切の感情を浮かべずにアレンにとっては衝撃的な言葉を落とした。
「オークション会場でも、しきりに俺を探していたな」
「っ!!」
その口ぶりは、あそこにグレンシールがいたかのようなものだった。
 いなかったのに、どうして。
背けていたのが嘘のように真っ直ぐなその視線に、グレンシールは口元を歪める。
「考えが足りなかったな。俺がそこらの客と、同じ場所に行くとでも?」
「あ、やっ!」
指に力が加わって、更に強く扱かれる。嫌なのに、グレンシールの指が動くたびに耐えようもない快感に襲われる。胸への刺激と共に無理やり引き出され、それはアレンを成長させるに十分だった。ぎゅっと閉じた目の端に涙が浮かぶ。
屈辱の証であるそれをグレンシールが舌先で舐め取って、唇が耳へと移動した。耳朶を食まれ、押し付けられている体がびくりと引き攣る。胸とはまた違った快感が背筋へと伝い、濡れた音が直に鼓膜に響いて。
「う、ぁ…っ、あ、…!」
呆気なく、アレンは果てた。くたりと力が抜ける。乱れた息が熱くて、その熱に泣きそうだ。
 情けない。
シーツへと落ちる涙をグレンシールにぬぐわれて、更にその思いが募る。
「色っぽいもんだな。そこらの女よりも誘うのがうまい」
グレンシールの露骨な言葉が体全体へ降ってくる。身が焼ききれるような屈辱だった。
それを人生で感じるのが一度だけなのだとしたら、間違いなく今この瞬間なのだと断言できるほどに。
 ―――殺したい。
テオの仇だけではない、アレン個人としても、殺したかった。この男を。
「!な、に…っ」
下肢に冷たい空気を感じて、そちらに目をやる。グレンシールがアレンの下肢からズボンと下着を抜き取り、丸めようとしてふと掌を拭く動作をした。自分の放ったものをその手で受け止めたのだと改めて自覚して、羞恥に頬が染まる。それでも次にグレンシールが何をするのか、先が分からないだけに不安で視線をそらすことはできなかった。泣き出しそうなほどに恥ずかしい思いに耐えながらもずっと見つめていれば、大雑把にでも一応拭き終ったのかグレンシールはそれを丸め、アレンの腰にもう一方の手で触れた。
「やっ…触るな!!」
「大人しくしてろ」
半ば悲鳴じみたそれに冷たく言い放ち、浮かせた腰の下に丸めた衣服を押し込んだ。無理やりに達せられたことで気が昂ぶっているのか、がむしゃらに暴れる足を押さえつけるのに苦労はない。易々と片手で押さえつけながら、グレンシールは改めて組み敷いた体を見下ろした。
 無駄に柔らかいベッドに投げ出された肢体には、筋肉が適所についていた。運動などでつくものではない、かなり鍛えられているのだと一目で分かる。さすがに覚悟一つで乗り込むほど馬鹿ではないらしい。
 年は、確か。
「二十…だったか」
会場で流れたアナウンスを思い出して、しかし正確なものではないだろう。名前も言っていたような気がするが、これもまた同じくだ。
呟かれたそれに訝しげに瞬くその目は、先ほどの影響か未だに潤んでいる。目が合うと途端にきつく睨みつけてくる様は、おそらく本人が意図しているものとは全く別のものしかグレンシールに与えなかった。腰に添えたままだった方の手でわき腹をなぞると、ぴくりと体全体が小さく揺れる。筋肉がついていても体自体が太いというわけではなく、会場で遠目でも感じた艶は、尚一層強く。
 グレンシールの口元に、苦笑が浮かんだ。
嘲りでも何でもない、自然に浮かんでしまったようなその笑みに、アレンは思わず目の力を弛ませた。テオの店の回廊ですれ違った時よりも更に前、少なくともアレンの目には優しく映ったあの日のグレンシールと重なる。
しかし一瞬後すぐに笑みは消され、押さえつけられていた両足を持ち上げられて我に返った。
「やめ…っ放せ!!」
何をするのか、なんて言葉は出なかった。男同士のそれを具体的にどうするのかなんてアレンは知らない。ただ本能的に、まずいと思った。必死に手を動かす。コードが食い込んで、だが痛みは感じない。そんなことにこだわってる場合ではなかった。
「嫌だっやめろ!!やめ」
「じゃあ吐け」
叫んでいた言葉がぴたりと止まる。口を開いたまま、グレンシールを凝視した。
「名前は」
会場で名乗った名前は偽名だと断定しているその口調に、今更ながら悔しさがこみあげる。視線をそらし、しかし閉じていた足を大きく開かれてたまらず叫んだ。
「ア、レンっ!」
「…アレン?」
ほとんど泣き叫ぶようなその単語にグレンシールが動きを止める。アレンの両足を大きく左右に開いたまま、吟味するように呟いた。何か思い当たる節でも探そうとするかのように見下ろしていた視線が虚空にとんで、感じていた圧迫感が僅かに軽くなる。
極度の緊張で、運動をしたわけでもないのにアレンの息は切れていた。すぐに圧迫感が戻ってくる。
「次。俺を殺しにきた理由は」
「……っ、」
覚悟をしていても、それを訊かれて思わず息を呑む。体が引き攣って、汗が浮き出た。
強い視線が嘘をついても通用しないことを示していた。それでも答えるわけにはいかず、口を噤む。
 言えるわけがない。名前とこれとはわけが違う。言ったら、に害が及ぶのだ。それだけは譲れない。
「犯されたいのか?」
冷徹な声が降りかかってきて、それでもアレンは沈黙以外の反応をしなかった。
 名前は、別に意味はなかった。一応偽名を使っていた方がいいだろうと思ったからやっただけのことで、深い意味はなかったのだ。
アレンの存在は華僑の中でも特にテオに近しい者しか知らない。そうでなくとも、テオと以外でアレンのことを外に漏らす者はいないだろう。外部者の介入をひどく嫌う華僑の者にとって、恥であるアレンの存在は何にも増して隠しておきたいものなのだから。
例え同じ名前の者がこのニューヨークにいたとしても、それはアレンとは全くの無関係の人間。だからこそ先ほどは呆気なく吐いたけれど。
 アレンの様から感じ取ったのか、グレンシールはそれ以上何も言わずにアレンの足を更に大きく開いた。
恐怖に肩が揺れて、それでも何も言わずに強く目を瞑っているアレンの顔をグレンシールは最後に一瞥してから。
体重をかける。スプリングが、鳴った。
「っ…っあ、ああああ!!!」
 悲鳴が劈いた。
それが自分から発せられたのだとアレンに理解できるような余裕はない。全身を激痛が包んだ。
慣らされてもいない、他の誰かを迎え入れたこともないそこに無理やり押し入られて、瞑られていた目がかっと見開かれる。意識する間もなく涙がボロボロとこぼれて、ただただ痛みに支配される。怖いなんて思わなかった。思考の全てが痛みへと直結していた。
グレンシールが押し進んでくる度に激痛が走り、息のみの悲鳴が響き渡る。
 限界を越えた痛みには悲鳴も出ないことを、アレンは身をもって知った。
「っつ…!」
あまりに強すぎる締め付けにグレンシールの顔が思い切り歪み、苦悶の声がもれた。
激痛のなか、鍛えられたアレンの耳がそれを捉えて無意識に視線がそちらへ向いて―――驚きに見開かれる。
思ったよりも近いところに、グレンシールの顔があった。だがアレンの目が見開かれたのはそのためではなくて。
 金髪越しの緑が、鮮やかだった。
アイスグリーンの瞳は、本人の行為に関係なく綺麗、で。
痛みも忘れ、つい一瞬見惚れる。
「―――…」
しかし次の瞬間、強張っていた力が抜けたのを感じたのか一気に奥まで押し入られて、それ以上見ることは叶わなかった。一度奥までいってしまえば少し楽になったのか、入ってきた時よりも早く抜かれていくその感触に、一瞬止まっていた涙がまた次から次へと溢れ、思い出したように痛みがぶり返す。息のみの悲鳴が響いて、火花が散った。
「…は……!…ぁ…!!」
普通に殺された方がマシだと、そう思えるほどの痛みのなか。
アレンの唇はいつの間にか、悲鳴以外の何かを紡ごうとしていた。それは体を揺らしているグレンシールが気付くにはあまりに小さな動きで。
「……、オ……っ…」
息を吸っては悲鳴の吐息を吐き出すだけだった唇から、掠れた声が出た。ある人物の名前、今この状況でそれを口にすることはまずいのだという意識は既にない。限界を越える痛みが、アレンから考える力を奪い救いを求めさせた。
「あ、…っう…!」
グレンシールの動きには容赦がない。内臓を引き出されるような感触に、吐きそうで。
「テ……ま…」
世界で一番、尊敬していた。ずっと名前を呼んでいて欲しかった。笑っていて欲しかったのに。
 テオ様。
一段と深いところを抉られて声が擦り切れる。頭の中が霞む。痛みが一瞬、引いたような気がして。
「…テ、オ…さ……」
 瞬間、体の内に何かが放たれた。
それが何なのかも分からないまま、急速に力が抜けていくのを感じて知らず安堵の涙が一筋流れる。
意識が完全に途切れる寸前。
 アレン、と。
テオの優しく呼んでくれる声が、聞こえた気がした。




























2005 10 31
とりあえずボス、慣らしもせずにやったら痛いに決まってますよっていうか入るのかめっさ疑問なんですがそこはスルーでお願いします。

ご精読ありがとうございました。