屋敷全体が騒がしい。 グレンシールが帰宅した直後だからというわけではない、全体的に浮ついた雰囲気が伝わってきて、しかしそれも仕方ないかと小さなため息をつく。 『………男にそそられるとは思わなかった』 「はぁ?」 部屋を出て行くように言われて渋々従った後、大丈夫だとは分かっていたがそれでもやはり心配が残る。いつもならば苦に思わない待ち時間が妙に長く感じ、ようやく自分のケータイが鳴って飛びつくように出てみたら一言目がこれだ。 思わず「はぁ?」とも言いたくなる。 しかしいつになく呆然としたその声音に早足で部屋へ向かい、ちょうど室内から出てきた本人の当然だが無事な姿に安心して声をかけようとしたその矢先、合った視線を何故だか思い切りはずされた。そして微妙な、本当にそうとしか表現できないような微妙な表情で「…頼んだ」とだけ言うと、グレンシールは一人車へ行ってしまって。不審に思いつつも室内に入って、そして―――呆然としたのだ。 先ほど携帯を通じて聴いた声の持ち主以上に。目の前の光景に。 あの時の驚きは本当に計り知れなかった。そしてそんな決して正常とはいえない精神状態の中でもグレンシールの「頼んだ」という、あの一言にこめられた意味を正確に理解し実行した自分は、自画自賛になるができた片腕だと思う。本気でそう思う。 「おうクレイ、…どうした?」 声をかけたはいいものの、どこか疲れた様子を見せるクレイにビクトールは予定していたものとは違う言葉をその口にのせた。クレイは苦笑して、緩く首をふる。話しても大爆笑されるだけなのは目に見えていた。 「いえ、何でも」 「ならいいけどよ。…で?」 「はい?」 何について問い掛けられたかは分かっていたが、あえてとぼけてみる。案の定ビクトールはにやにやと笑って、今いる場所―――三階へと続く階段、その半ばで立ち話をしている自分達からは見えない、廊下の奥まった先にある部屋を顎で示す。 そこは、彼の。 今夜屋敷全体を騒がせているグレンシールの、部屋。 本来なら幹部以上でなければ立ち入れないそこに、今夜は。 「ボスが連れて帰ってきたんだってな?みんな騒ぐわけだぜ」 つられて上を見ていた視線を戻す。ビクトールはなおも上を見上げていて、視線は合わない。 そう、それがいつになく屋敷が騒がしい理由だった。 グレンシールがボスになってから優に五年以上、だがその間一度だってグレンシールが部外者を部屋に、屋敷に連れて帰ってきたことなどない。 女と会う時はいつもグレンシールが出向いて、どんなに気に入った女でも連れて帰ってくるなんてことは一度もなかった。 なのに。 「で、当然美人だろうな?」 ようやく視線を上からおろしたビクトールは、尚も変わらない調子で笑っている。 オークション会場で、そしてつい数十分ほど前までいたあの部屋で見た顔立ちを思い出して、クレイは苦笑した。 「確かに美人ですが…。ビクトールさんが思っているのとは、違うと思いますよ」 ノズルを締めて、排水溝へと流れていく温かい水を目で追う。前髪から伝う水滴が目の中に入り、視界が滲んだ。 湯気ばかりのシャワールームを出て、新品のバスタオルだけが置かれている棚から適当に一枚取って顔をふき、洗面台の鏡をふと見やる。そこに映る自分の顔は、いつもと変わらない。グレンシールはぼんやりと目をふせた。 一番最初。口に指をいれたのは用心だった。 噛まれる程度ならいい、だがもし舌に深い傷でも負わせられたら困ることになる。だから指で反応を確かめてみたのだが結果、相手はそれが何なのかも分からずに驚いているだけだった。これなら大丈夫かと指を抜いて唇を塞ぎ、行為をすすめたのだが意外なことがありすぎて。 最初は、本当に抱こうとしていたわけではなかった。ただオークション会場で感じた艶は、近距離で見ると更に強く。 またわざわざオークションに乗り込んできたことからして、普通に苦痛を与えてもしゃべらないだろうことは容易に見当がついていた。艶に惹かれ、そして少し遊んでみるかという程度の思惑でやってみただけだったのだ。本当に抱くつもりなどなかったのに。 大体男にそういう意味で触れたこと自体が初めてで、だが想像していたような嫌悪感は微塵もなかったのが不思議で。必要なことを吐かせたら殺そうと思っていたのに、何故だか自分の手や指先、体全てが先へと進みたがっていた。 女相手ならまだしも、男に何をと思いながらも。 止められなかった。 これも意外で。 そしてアレンに、経験がなかったこと。 当たり前だが男とセックスしたことなどなかったから、最初は気付かなかった。こういうものなのかと思っていたが、どうも快感に対する反応がいちいち顕著で。敏感だからというものではなく、初めての感覚に終始驚いているようだった。 あれは多分、男はもちろん女の経験もないだろう。口づけても上手い応え方は返ってこなかったのだし。例え応え方を知っていても応えなかっただろうが、それでも経験があれば、人間はのってしまうものだ。 ―――意外すぎる。 一人の人間に、こんな三つも四つも意外性を感じたことはなかった。 「あー……」 洗い立ての髪をかきあげて、タオルでガシガシとふく。水滴が床に落ちるがどうでもよかった。 悪いことをしたなどとは思わない。が、それでも少し、心にひっかかるものがある。 てっきり、既に経験があるのかと思っていたのに。 口内にいれられた指が何なのか、すぐに分からなかったことから回数は重ねていないのだと思った。だが身に纏うその艶は、貫かれて快感を感じる程度には慣れていると思わせるには充分で。 「どこからきたんだよ、あの艶は…」 半ばヤケになったような口調で呟き、バスローブを羽織る。水滴を滴らせたままにバスルームを出て居間にでると、まるで謀ったかのように視界の端にあるドアが開いた。 「…ちゃんとふいて下さい。風邪ひきますよ」 屋敷の三階、一番奥まった場所にあるグレンシールの部屋は、入るとまずデスクとパソコンのある仕事部屋、その奥が私室という構造になっている。その私室にあたるここに唯一許可を求めなくとも入室できる人間は、グレンシールを目に入れた途端にまたか、という表情をした。 「……分かってる」 しかしやや遅れてされた短い返事に、驚いたようにクレイが目を見開く。 その気配を感じ取ってはた、と気づいてももう遅い。疑うような視線を感じ、その一切を無視して水分を含んで色の重くなった髪を拭き始めてみたが、それも逆効果だとやった後に気付いた。 自分が無頓着なのはそれこそ生まれ持った性格というやつで、長い付き合いからクレイはもちろん熟知している。言っても無駄だと分かっているのにそれでも言ってくるのは最早条件反射のようなものなのだろう、対してそれにグレンシールが返事をしない、というのが常だったのだが。 「……………………」 「……………………」 妙な沈黙が、流れた。 寄せられる強い視線に、そして先ほどの自分にグレンシールは内心で舌打ちをする。アレンを抱いたことといいさっきのミスといい、今夜の自分はおかしすぎる。何をやっているのかとため息をつきたくなったところで、後ろからそれが聞こえた。 「やることやっといて、更には後のこと全部人に押し付けておいて。…今更、何恥らってんですか」 しかも、そんなあからさまに視線はずして。 加えて言われたそれに、ますます舌打ちしたくなった。 長い付き合いから培われたクレイとの空気は確かに楽でやりやすいが、その分他の者なら躊躇するところにまで突っ込んでくるから厄介だ。ビクトールは例外だとしても、キルキスやアップルあたりならば先ほどの沈黙に耐え切れずに退室しているだろう。それでは片腕は務まらないと分かってはいてもつい考えてしまうのは、クレイの言う通り依然視線を外したままという事実があるからだ。 だが、合わせられるわけがない、と思う。 この世界、特に今回のようなケースでは強姦なんて情報をはかせる為の常套手段であって、本来なら話にものぼらないことだ。拷問のように手間がかかることなく、そのくせ相手に与えられるダメージは多大という、自分達にとってはひどく簡単な。 だからグレンシールがそれをしたとしても、こんな気まずさを味わうことはない。なかったはずだが、如何せんした対象が―――男。 気まずい、とその性格と地位故に滅多に感じることのないそれが重く圧し掛かる。 「…………」 沈黙は続き、タオルで吸い取れる水分もあらかたなくなってしまう程の時間が経ってから、再び。クレイからため息が落ちた。 「…それともあれですか、今まで黙ってたけど実は童貞だったってオチですか」 「………は?」 今なんて言った?ていうか何でそうなる。 沈黙が破られ、しかし出てきた言葉は思いもよらないもので。あまりに唐突すぎる言葉にあらぬ方向を見つめたまま、無意識に間抜けな声がでた。が、クレイはそれに構うことなく一人頷いて。 「で、どうにか初体験終えたはいいけど相手が男の子でしかも無理やりだったもんだから罪悪感とそして事後の照れでいつまでもそうやって目をそらし続けてるわけなんですねそうなんですねいやぁびっくりですてっきりとっくにすましてるものかと思ってたんですがこれは予想が」 「んなわけあるか!」 怒涛のごとく溢れるそのなか、聞き捨てならないそれについ言い返してしまってからハッとなる。―――目が、合ってしまった。 「知ってますよ。…やっと向いた」 そう言うクレイは呆れからか、半目で。 さっきまでの行動、そして単純だが男としては聞き捨てならない単語につい反応してしまった自分に、今度こそグレンシールは舌打ちした。いつもの自分ならば確実に流していたのに。やはり今夜はおかしい。 何も言わず、しかし思い切り顔を顰めているそんな上司に、クレイは眼差しを緩めた。 「そんなに顔顰めないで下さいよ。別に、何も言う気ないですから」 一体何を言われるのかと苦々しい思いでいたグレンシールは、その言葉に僅かに目を見開く。視線をやった先の片腕は、苦笑していて。 「俺が何か口をだすことでもないですしね。貴方が決めたことなら、従いますよ」 それでも釘をさすのは忘れずに。 「ま、驚きはしましたけど」 「…驚いたか」 「ええ、そりゃもうめちゃくちゃ」 いっそ爽やかなほどに笑って言われ、グレンシールは再度顔を顰めた。自分らしくない行動の連続ですっかり忘れていたが、そういえば昔からこういう奴だった。 知っていたはずなのに、本当に今日の自分はどうかしている。 ついため息がでた自分をクレイは苦笑しつつも眺めていて、しかしその腕が懐をあさっていることに気付いて視線を送る。と、目的の物を探し当てたのだろう、その腕がするりと懐から出てきた。 「あと、これを忘れずに」 取り出されたその四角いケースを見て、グレンシールの視線が僅かに強くなる。 テーブルに置かれたその中身は、容易に想像がつく。注射器だ。今の地位に就く以前、もう顔も忘れてしまった者達にグレンシールも何度か打ったことがあった。 それを認知した途端表情を変えた目の前の男に、クレイが僅かに気まずそうな顔になる。 「そう睨まないで下さいよ。吐かなかったんでしょう?」 「副作用は」 「当然、皆無のものをお持ちしましたよ。…一応、効き目も強中弱のものをそろえてきました」 他の者だったらこうはいかなかっただろうそれを簡単にやってのけるのが、このクレイという男だ。中年男の屋敷の廊下で何と言っていいか分からずに、ただ頼んだという言葉に含められた自分の複雑な心情を正確に理解している。 もしかしたら、本人であるグレンシール以上に。 つくづく有能だと思いながらも、どうしても視界に入るケースを改めて見た。その中の三本にはそれぞれにラベルが貼ってあり、先ほどクレイが言った効力が印刷されているのだろう。その内の一本をあの腕に射す様をつい想像してしまい―――失敗した。 喉元からせり上がってくるのは、この上なく不快な。 「…俺が、やりましょうか?」 「いや、いい。面倒なことはさっさと片付ける」 微妙な間だが、それでも何かを感じ取ったらしい。言われたそれに緩く首を振ると、納得したように頷く。 「それと、ベッドに落ちていましたので回収しておきました」 胸元のポケットから取り出された、誰もが見た事のある小さなそのケースを手渡されて、グレンシールは訝しげな気分でそれを見た。見たところ、必要ないものだったように感じたからだ。一体何故、と思いながらも蓋をあければ、そこにあったのは意外なもので。 「調べましたけど、どこでも買えるものですね。小細工も一切ありませんでした。色は?」 「黒だ」 問われたそれに、思い出す必要も無くすぐに答える。間近で見た上に、何よりも印象に残ったのだ。見間違えるはずが無い。 「…まあ、あの男の子が起きれば分かりますしね」 小細工もなかった以上、それを確かめるのに急ぐ必要は無い。どうせ明日になれば目を覚ますのだろうから。 言外に言われたそれに頷くと、クレイはテーブルから離れた。もう寝るつもりなのだろう。手近な時計の針は午前三時を指していた。 「それでは」 「ああ」 上質な故にほとんど開閉音が生じないドアを丁寧にクレイが閉めてから、グレンシールは手近のソファに腰を下ろした。テーブルの上、なんとなく目についたリモコンを操作してテレビをつけてみる。途端画面に映ったのは全裸の女。喘ぎ声が流れて、そういえば今が深夜だったことを思い出した。暫し眺めていたがさして何か思うこともなく、逆にまさしく狙っているのだろう甘い、それ以上に安っぽい声に鬱陶しさを感じてすぐに消した。 そして思い出すのは、アレンの。 甘さも何もない、含まれていたのは殺気と苦痛と、そして快感に対する恐怖。 なのに、たった今まで耳に届いていた女の喘ぎ声よりも遥かに劣情を掻き立てられるのは何故だろう。 それに嫌悪を感じていない自分が、また苦笑を深める。 水分を吸いすぎて役に立たなくなったタオルをテーブルに放った。代わりに手に取ったのは、注射器の入ったケースの蓋。中にはやはり、効果の異なる液体を湛えた三本の注射器があった。 浅く息をついてその内の一本をとり、身を預けていたソファから奥の部屋へと向かう。 「…………」 ドアを開けると、中は暗かった。だが遮光カーテンがひかれていないために月明かりが射していて、直に目も慣れるだろう。後ろ手でドアを閉めて完全に寝室に入ってしまえば、ベッドの中央に人が居るのが見えた。自分が運ばせたのだから当然だ、誰かなんて言うまでも無い。 アレンは、穏やかな顔で眠っていた。 近寄っても目を覚ます気配は微塵も無く、またこちらの気配を消しているわけでもないのに相当深く意識が沈んでいるのだろう、規則的な寝息が聞こえてくる。 寝室に、ベッドに寝かせるという理由で誰かをいれたのは初めてだった。そもそも何故アレンを抱いたのかも分からない。 同性同士の行為に対して、グレンシールは特別な私見を持っているわけではなかった。そういう意味でボスにつきっきりの部下というのも珍しいことではなく、自分にそれが向けられるのは不快だが他人ならば関係ない、無類の女好きだったはずの知り合いが言い出した時も、驚きはしたが特には何も思わなかった。 少し相手に問題があったために自分にまで面倒が回ってきたが、それだけだったのに。 グレンシールはベッドの側へ寄り、間近からアレンを見下ろした。その顔は幼く、あれほどまでに睨みつけてきたのが嘘のようで。 「………」 腕をとる。先ほど、この様を想像して味わった気分が更に強みを増した。なのに自分が手に取った注射器は、向かって左端の。 一番効力が強く、アレンの身体に負担がかかるもの。 「…、」 腕へのわずかな痛みを感じたのか、眠ったままの口から小さな呟きが漏れた。即効性のため、数分もしないうちにきいてくるはずだ。 何をやっているのかと、自身へと向かうその疑問は解けない。 副作用はないが、やはり効力が強いものは弱いものよりはそれなりに体に響く。『猫』に常備されている中で最上の物でも、やはり完全には拭えないだろう。 あの腕に射す様を想像して嫌な気分を味わったにも関わらず、そして今も、どこか重いものが残っているのに。 アレンのことを、知りたいと思った。 無謀にもグレンシールを殺す為に単身でのりこみ、そして今日自分があの場へ行かなければ、確実に玩具として終わっていたこの人間のことが、知りたかった。だから、一番効力の強いそれを選んだのだ。 抱える必要の無い、後味の悪さを今も感じながら。 「…まったく」 何をやっているんだ、と改めて己を不可解に思いながら、部屋は暗いまま。 グレンシールは、静かに待った。 雨が降っていた。珍しく、ラフィシュが欲しいものがあると言った日だった。車を出し、ラフィシュの買い物に付き従ったまでは良かったが、雨のために渋滞がひどく信号で何度もつかまった。 先ほどから大して進まないうちにまた信号でつかまってしまい、少しの間動きそうにない。何気なく窓の外を見やると、ホテルの前だった。アッパーイーストのホテルだけあってエントランスからして立派で、だがふとその端の、奇妙な組み合わせに気付いた。 子犬を抱えている少年に、スーツの青年が傘を差し出していたのだ。別に街の一角にある光景としてはおかしいことではない、親切なサラリーマンが少年に傘を貸してやるのだと、そう思うだろう。 だがその青年の雰囲気が、遠目にも一般人には見えなかった。それはアレンだけが感じ取ったのか、ホテルの前を通過していく通行人は目もくれない。 少年は驚いているのか青年を見上げたまま動かず、やがてそれに焦れた青年が傘を開いて落ちないように柄を少年の腕の間にさし、そしてそのままエントランスを出て行ってしまって。その後を、慌てて一人の―――年齢は同じくらいの青年が追っていく。 「アレン?」 ラフィシュの声にハッとして、視線を前方に移すと既に信号は青になっていて。慌てて車を発進させながら、なんだか少し微笑ましかった。 まだ若いから、どこかの組織の下っ端か、せいぜい幹部くらいだろう。だがそんな人物があんなことをするのが意外すぎて、思いがけない好印象を持った。どこの誰かは分からないが、きっと優しい人なのだろう。そう思った。 「………?」 何か、刺激を受けた。 今まで感じたことのないそれは、意識が浮上するにつれて少しの痛みを伴い始めていた。それが頬からきているものだと分かって手で擦るようにすると、ふわりと柔らかい何かに触れる。しかも暖かい。 ますます何が起きてるのか分からなくてうっすらと目を開けると、入ってきたのは眩しい光と。 「…うわっ!?」 黒い毛玉だった。 もぞもぞと動くそれに一気に目が覚めて思わず身を起こすが、突如襲われた腰からの激痛と体のだるさにうめく。息が荒い。汗が額に浮いて、一体何なんだとぼやきそうになったところで、急速に思い出していく。 オークション、中年男に、突如蜂蜜色の髪の男が。 「……っ、」 唇をぐっと噛む。無茶苦茶に叫んでしまいそうだった。 その後にあの男と、そして片腕のクレイが現れ、中年男は嬲られた挙句に殺された。自分は意味のない、だけどこれ以上ない屈辱を受けて。 殺されても構わないと思っていた。あの男に一矢報いることが出来るのならどうなってもいいと。 なのに今、あんな屈辱を受けた上に自分は生きている。 「…テオ様……っ」 握り締めた拳に、しかし暖かいものが再び触れた。少しでも体を動かすと激痛が更に激しくなったが、何だと手元を見下ろした先には、黒い毛玉。ぎょっと目を見開いて、だがその正体に気付くと厳しかった表情がゆるゆると溶ける。 「………ね、こ?」 言葉少なに呟くと、ざらりとした舌で手の甲を舐められた。さっきの頬の痛みはどうやらこれだったらしい。黒い毛玉だと思ったそれは猫の全身で、その目は金。一見どこにでもいそうな黒猫だが、どこか気品の漂うその姿に雑種ではないらしいことは簡単に分かった。 でも何で、と思わず目を瞬いて凝視していると猫は再び手を舐めて、そしてふと後ろを―――アレンにとっては前方を見やる。つられて視線をあげると、今まで気付かなかったがドアがあった。 動物は人間以上に気配に聡い。腰から響く激痛は無視してそのまま見ていると、ノブがガチャリと動く。現れたのは。 「……っ!!」 「…目が覚めたか」 起きているとは思っていなかったのだろう、グレンシールは一瞬驚いたように目を瞠り、だがすぐにその色を消してゆっくりと呟いた。そのまま部屋に入り、パタンと音をたててドアが閉められた。 アレンは、グレンシールから目が離せない。 その視線を感じていないわけがないだろうに、ベッドへと歩み寄ってくるその表情には何の揺らぎも見られない。グレンシールがいるということは間違いなくここは『猫』の力が充分に及ぶところで、当然のことだがアレンはグレンシールにとって何の脅威でもないのだろう。それがありありと示されて、悔しさで体が震える。 「……なるほどな」 半端な距離を残して、見下ろされる。じっと目を見つめられ、臆するのは自分のプライドが許さない。決して逸らすかと睨み返すと、どこか納得したような声を洩らした。何だと訝るアレンの前に、グレンシールはポケットからある物を取り出して見せる。 どこのメーカーのものでも同じ形をしているであろうそれ、は。 「こんなものをつけていたわけは、その赤い眼を隠すためか」 「!!」 反射的に目元へ手をやって、視界に入った窓を見る。うっすらと色をのせて映るのは見慣れたものよりは遥かに薄い、しかし間違いなく赤、だ。 「視力矯正の度も入ってない。どんな色を隠してるのかと思ったら、…ずいぶんと見事な色だな」 珍しい、と口の端をあげるグレンシールの手の中にあるのはコンタクトケースだった。いつもつけている黒のカラーレンズがおさまっているはずのそれを目の前に晒されて、しかし睨みつけることはせずにアレンは目を伏せる。グレンシールを視界から外し、静かに息をついた。 驚いたが、別にそれはいい。ここでは意味のないことなのだし、この眼の色を揶揄されるのは腹立たしいがそれは耐えればいいだけだ。落ち着けと内心で繰り返し、それでもまだ寄せられる視線は不快でしかない。 「これをわざわざつけていた理由は」 「…?」 問い詰める為のものではなく、ただ聞かせるためだけの口調。訝しんで視線をあげれば、グレンシールは既に笑みを浮かべていなかった。真っ直ぐに冷たい瞳に見下ろされて、知らず眉根が寄る。 そして落とされた言葉、は。 「眼の色が変わるだけで、印象はかなり変わる。外部の干渉を嫌う華僑の中では特にだろう。…いい手だ」 「―――っ!?」 何か大きなものに胸を突かれたような衝撃が走る。これを受けるのは意識を失う前、グレンシールがオークション会場にいたという言葉を聞いた時とで二度目。 何で。 何でこうも、この男の手のひらの上で踊らされてしまうのだろう。 瞠目し、呆然と見上げるアレンを見返すグレンシールは痛いほどに淡々としている。侮蔑でも何でも、なんらかの感情があった方がまだよかった。アイスグリーンの瞳は冷えていて、余計に自分の立場が浮き彫りにされているような気にまでなる。 「犯されても何も吐かなかったその忠誠心は認めるがな。自白剤はいくらでもある」 「…ラフィシュ様に手を出すな!!」 考えるまでもなく、叫ぶ。 馬鹿だった。あまりに愚かだった。何故そこに思い当たらなかったのだろう。そんなもの材料さえあれば自分にも調合してつくれるのに、抱かれるということが恐ろしすぎてそこまで頭が回らなかった。どうして。 どうして最初に捕まった時、自分は自害しなかったのだろう。 「ラフィシュ様は関係ない!全部俺が勝手に」 「知ってる。…というか、何でお前は知らない?」 ラフィシュ殿の、テオ殿の家族だろう。 加えて言われた言葉に、本当に身元を知られてしまったのだと絶望が深くなる。しかし、それより前の言葉が気になった。何を、知らないというのだろう。 「何の、ことだ」 「…なるほど、ただ単に知らされていなかったのか。またはラフィシュ殿も、まさか身内がここまでやるとは思わなかったのか」 「だから、何のことだって…!」 必死に見上げるアレンに何かを感じたわけではないだろう。冷たい瞳はそのままに、グレンシールは計算したかのように一瞬間を開けて。 「『猫』はテオ殿と、今はラフィシュ殿と提携している。申し出たのはテオ殿だが、充分な見返りはもらった。…うちがテオ殿を殺すなんてことは有り得ない」 「…………提、携…?」 思っても見なかった言葉に、自然と眉がよる。何を言っているのだろう、この男は。華僑で随一の力を誇っていたテオが提携なんてそれこそ有り得ない。大体、ラフィシュも。 「嘘だ、ラフィシュ様は何も」 「ラフィシュ殿自身も何も聞いてなかったようだからな。俺が連絡したのは十日ほど前だから…計算は合うか」 十日前後、つまりテオが亡くなって一ヶ月ほど。アレンが『猫』の、グレンシールを殺せる機会をうかがって色々なところを駆けずり回ってようやく、オークションを突き止めた日あたりだ。その前は情報を得るために屋敷へ帰らないことがほとんどで、帰ってもラフィシュとの会話は二言三言。 確かに計算は合う、だけど。 「…嘘だ。テオ様から提携を申し出たなんて馬鹿げてる」 「お前がどう思おうと構わん。…大方、反乱分子にうまくのせられたんだろう」 「………反乱分子…?」 耳慣れない単語に眉を顰める。 テオを頂点に、世界中の華僑は強固な絆で結ばれている。華僑が華僑であるが故の、血の絆。その中にいた自分はその強さを誰よりも知っているのに、この男は何を言い出すのか。 「テオ殿から直接聞いた。うちと提携を結んだのはそのためだ。外に敵はない華僑にとって、内部の乱れほど怖いものはない」 世界中に散らばった同胞の数は計り知れず、テオの一言で世界経済は大きく左右する。そのためほとんどの国は、実質世界の中心であるアメリカ合衆国、その大統領でさえも華僑の長には対等な礼をとるのだ。そんな華僑が崩れることがあるとすればただ一つ、内部からの。 それは分かる。しかしそれは、あくまで華僑内部が乱れた時のことだ。テオの元、強大な一枚岩として完全に機能してきた華僑が崩れるなんてことは有り得ない。グレンシールが言っていることを信じる道理はないと、そう思う。 だけど。 そこまで考えて、アレンは無意識に拳を握った。テオを殺したのは『猫』だという、あの噂をきいてから考えたこともなかったが、反乱分子という言葉を聞いた途端にせり上がってきたそれ。 華僑内部の乱れでないのなら、ならば何故、ラフィシュは何もしようとしなかったのだろう。テオの死後、確かに忙しいとはいえ、犯人が分かっているのならば手のうちようは幾らでもあったはずだ。まだ幼いとしか言えない、それでも次期長であるラフィシュの言ならば、ほとんどの国の最高機関は協力する。協力するしか、国が立ち行く術はないからだ。 なのにラフィシュは、何もしなかった。テオが亡くなり、各国の権力者からラフィシュに悔やみの言葉と挨拶を兼ねた連絡が来た時も、ただそれに応じるだけだった。各国の報道機関が何度も報じていた強盗が正真正銘の犯人ならば、例えその全員が死んでいても何らかの手は打っただろうに。ラフィシュは何も、本当に何もしようとしなかった。 それこそが、グレンシールの言う反乱分子の存在を裏付けているのではないだろうか。 「……」 「図星か。思い当たることがあっただろう」 「っそんなことない!」 言い当てられて反射的に叫んだが、その様が何よりも雄弁に語っている。分かってはいたが、叫ばずにはいられなかった。 自分なりに必死に考え、行動したつもりだった。しかしそれは全て相手方に知られており、結果このざまだ。殺そうと思っていた男に簡単に組み敷かれ、犯された。目が覚めてみれば何故だかベッドに寝かされていて、組織のボスの命を狙った者の扱いではない、それにも値しないと言われているも同然だ。 そして今、グレンシールの言葉に揺るがされている自分がいる。 その全てが、悔しかった。最初から知られていたことも、犯されたことも。柔らかいベッドに寝かされていることも―――今、不安になっている自分も。 最初から、本当に最初から。 何一つ、自分はグレンシールに勝てていない。一矢さえ報いることも出来ていない。それが泣きたいほどに、悔しい。 視界が潤みそうになって、握っている拳に目を落とした。爪が食い込んで痛い。それほどまでに力をこめていたのだと気づいて僅かに緩める。その拳の先に、影が落ちた。 見上げれば、やはりいたのはグレンシールで。 ふと、その目が細められた。 「っさ、わる」 な、とまでは言えなかった。肩を掴まれ、背後の壁に押し付けられる。何をと思った時には、目の前に薄い金色の。 「……んぅっ…!」 口付けられ、舌が入ってくる。柔らかいそれには覚えがあって、しかし噛んでやろうにも既に顎をつかまれていてできない。 口内の粘膜を舐められてぞくりとしたものが背筋を走り、肩が大きく跳ねる。顎と肩を押さえられている上に距離はないようなものだ、相手にもそれが伝わって眼前で緑が眇められたのが分かり、反射的に強く目を閉じた。 舌や唇にグレンシールの舌が触れるたびに、どんどん頭がしびれていく。はっきりしているのは息苦しいことだけで、快感と下肢からの痛みがまざって何がなんだか分からない。 快感がどこまでも追ってきて、頭が爆発しそうだ。 「っ……やめ…っ、な、に…!」 顎をつかんでいた手が離され瞬間的に顔を背ける。両手で突っぱねようとしても今ので力が抜けていて、グレンシールの体はびくともしない。 「黒い目もよかったが、赤い方がいいな。…そそられる」 「っ…いや、だっ…!」 耳元で囁かれる。肌が粟立ってくすぐったい。その反面電流のようなものが体の中を走って、妙な熱が集まるのが分かる。 未だ息が荒いのが情けなく、視界がにじんでいることまでもが辛い。濡れた何かが首筋を伝い、それすらからも熱が生じて嫌だった。 何で、こんな。 グレンシールが知りたいことはもう分かったはずだ。殺しにきた理由も、アレンの身元も。 なのに何で、こんなことをするのか。赤い目は確かに珍しいだろうが、それでもアレンは男だ。女性を相手にした方が遥かにいいはずなのに、何で。 「やめろっ……女じゃない、のに…!」 「昨夜言っただろ。そこらの女よりも、よっぽどそそられる」 「…触るなっ・うあ…っ!?」 身を捩ろうとした途端、突如激痛が走った。体を裂かれるような痛みが下肢から突き上げ、吐き気までしてくる。 じっとしていても辛かった痛みが下肢を動かそうとしたせいで更に牙をむいたらしい、身体の中で痛みが跳ねているようだった。唾液が口内にあふれ、あまりの痛みに吐きそうになったがどうにかせり上がってきたそれをぐっとこらえる。シーツを力の限り握り、ただただ痛みが過ぎるのを待つ。 「…っ……」 どれくらい経っただろうか。 ようやく痛みがおさまってきて、アレンはゆっくりと体の力を抜いた。じくじくとした痛みは依然続いているが、たった今までアレンを襲っていたものよりは全然ましだ。それでも続く痛みは尋常ではないから、できる限りの緩慢さで体を起こす。 いつの間にかうずくまっていたらしい、シーツを握っていた手の力を抜いて深い息を吐いた。 「昨日のか」 「っ!」 かけられた声に、ついさっきまでのことを思い出す。グレンシールは、既にベッドから離れたところに立っていた。痛みに耐えているところを見られていたのだと知って途端に悔しさが湧き上がる。 この男にだけは、そんなところを見せたくなかった。何であんなことをしたのかも分からない。ただ、混乱と悔しさがまざってどうしようもないほどに憎い。 グレンシールは無表情なまま、こちらを見つめていた。何を考えているかは読めない。それでも視線をそらすのだけは嫌で、冷えた色の瞳をじっと見返す。 やがて、ぽつりと相手が口を開いた。 「考えなかったのか」 「……何、が」 いきなりそれだけを言われて分かるわけがない。眉を顰めながらも問い返せば、グレンシールは目を細めた。それは思い出したくもないが、先ほどのような何気ない動作ではなく―――明らかに、こちらを見下すもの。 「何だよ!」 声を荒げても、何ら効果があるわけもない。逆に軽く息をつかれて苛立ちが募る。そんなアレンの気持ちをわかっているだろうに、グレンシールは幾分長い間をあけてから口を開いた。 「…俺を殺すと決めた時、可能性を全く考えなかったのかと言った。提携を信じる信じないはお前の勝手だが、お前が行動を起こすことによってラフィシュ殿にまで害が及ぶ可能性は決して小さくない」 「……、…そ、れは」 それは。 自白剤という言葉をこの男の口から聞いた時、いやもっと前。 顔の真横にナイフを突き立てられたあの時から、アレンの内にくすぶっていたもの。 「昨夜自分で示した通り、口を割らないから平気だとでも?だが現にお前は自白剤で話し、ラフィシュ殿のことも俺は知ってる。この状況でも、ラフィシュ殿に害が及ぶことはないと言えるか」 反論できなかった。声を荒げるでもない、淡々としているからこそ、余計に事実を思い知らされる。冴え冴えとした視線が痛くて目を逸らしたかったが、何故だかできない。アイスグリーンに見下ろされて、何か言うことも出来ずにただ見返すことしか。 そうだ、分かっていた。 分かっていて、今まで見ぬふりをしていた。自分の愚かさを認めたくなくて、気づかないふりをしていたのに。 グレンシールがため息をついた。何も言わないのを見て取ったのかゆっくりと、だが何の躊躇いもなくこちらに背を向けた。それは命を狙ってきた相手に対して、最大の。 「行動を起こすなら、あらゆる可能性を考慮してからやるんだな。お前のやったことは、ラフィシュ殿にとってただの迷惑だ」 ―――屈辱だ。 憎いという言葉しか浮かんでこなかった。 音もなく扉が閉められて、ついで鍵を閉める音がしても、アレンは動かなかった。痛みなんてどうでもいい、内から溢れる悔しさで動けない。 「…くそっ!!!」 ベッドに拳を振り下ろす。柔らかいそれは簡単に沈み、その手応えのなさが苛立ちを増幅する。 憎かった。涼しい顔をして自分を犯し、そして何の必要もないのにまた犯そうとするグレンシールが。 アレンが知らぬふりをしていたそれをあっさりと言い、背中を向けたグレンシールが。 絶対的な立場からアレンを見下し、それを嫌味なまでに効果的に見せつけるグレンシールが。 涙が溢れる。 次から次へと頬を伝い、シーツへと落ちてとける。そこに何度も何度も拳を振り下ろす。手の甲に涙が落ち、泣き過ぎて頭が痛くなっても、アレンは泣き続けた。 あの男が憎かった。憎くて憎くて仕方なくて、だけど。 「…うっ……く…、う……」 ――― 一番憎いのは、グレンシールにそんな態度を簡単にとらせてしまう自分だ。 もっと考え、うまく立ち回っていたら。 そうすれば少なくとも、こうまであの男に絶対的優位さを見せつけられることはなかっただろう。背中を向けられることも、気まぐれで犯されそうになることもなかったはずだ。 「っく…、…っ!」 部屋の外に聞こえるかもしれないという考えはなかった。柔らかいベッドを何度も拳を振り下ろす。大声をあげて泣いた。 いつの間にか、あの黒猫もいなくなっていた。 2008.7/4 ようやくここまで…。 ご精読ありがとうございました。 |