冬だけがもたらすことのできる、甘い傷。










ノックもなしに開けられた扉の向こうにいる人物は決まっている。
そしてその手にあるのは、一枚の書類。
何か手違いでもあったかなと思いつつ、アレンは執務机に座ったまま口を開いた。
「どうしたんだよ、自分で持ってくるなんて珍しい」
「風邪で休みだ」
いつもは副官が持ってくるのに、というニュアンスをこめて言えば、グレンシールは肩をすくめて―――その実全然大変だとかは感じていないだろうに―――大儀そうに答えた。
別に今の時期は忙しいわけでもないのだし、元々嫌味なほどに頭の回転が速い男だ、別に一日や二日、書類仕事のみなら副官がいなくても困らないだろうとまで考えて少し腹が立つ。
「お前のは?」
「書類出しに行ってる。で、それは?」
手元の紙を目と言葉で促せば、グレンシールは何も言わずにひらりとアレンの目の前に差し出した。
「…『国境付近の盗賊征伐要請』?あれ、お前の方にいってたのかこれ」
視線を書類から相棒へとうつすと、グレンシールはただ頷くだけで。
どうも言葉少なだな、と首を傾げつつも目の前のそれを受け取って確認すると、確かにこれは自分の元に回ってくるはずだったものだ。
大方書類の配備ミスだろうが、決裁の締切日までには余裕があることに安堵する。
「ありがとな、グレン。助かった」
「ああ。じゃあな」
「あ、おいちょっと」
そのままあっさりと背を向けたグレンシールにどこか違和感を覚えて、アレンはつい反射的に呼び止めた。
自分の執務室に戻ろうというのは別に変な行動ではない。
少し話していく時もあればさっさと戻る時もあるし、それはまさにその時々で、第一そこに違和感があるわけではなかった。
ただ自分にしか分からない程度に言葉が少ない点がひっかかって、しかし普通に返事をしたことからグレンシールは不機嫌だというわけでもないことが分かる。
いっそそうだったならば触らぬ神に崇りなし、ということで放っておくのに。
さてどうしたものかと、こちらを首だけ振り返ったグレンシールを見ながら内心で呟いた。
「何だ?」
「…と言われても俺も困るんだけどさ」
「は?」
「いやその、お前なんだか変だから…」
「変?」
その言葉に、グレンシールの眉が僅かに顰められた。
 あ、まずい。
いつものグレンシールだったらこんな些細なことで機嫌を悪くすることはないが、なんといっても今日の相棒はどこかおかしいのだ。
まさかこの歳でこんな些細なことで喧嘩になるとは思わないけれども、それでも相手が不機嫌なのはアレンからしたって楽しいものではないのだし、ここは謝っておくに限る。
そう思ってアレンが口を開こうとしたその瞬間。




「…っつ」




小さなその声に、反射的にアレンは顔をあげた。
見ればグレンシールが先程書類を持ってきたその手で口元をおさえていて、思わず席を立ってその側まで駆け寄り、顔を覗き込む。
「どうしたんだ?」
「…口切った」
「口?」
言いながら添えられていた手をどかすように掴んで隠されていた口元を見やると、確かに唇の端が僅かだが切れていて、赤い血が少し滲んでいた。
そういえば今日の外回りはグレンシールの番で、更に思い返せばつい先程、執務机の後ろにあるテラスから、おそらく外回りから帰ってきたであろう相棒を見たんだったと思うと同時に、掴んでいるその手もいつもより冷たいことに気付く。
冬真っ只中というこの時期、さすがに仕事用の手袋はしていたのだろうその手には痛々しい皸などは見られないが、それでも元々体温の低いこの男だ、本来の色素の薄さも手伝ってやけに寒々しく見える。
今切った口の端も、その外回りの時点で生じた傷が更に裂けたのだろうということは簡単に予想がついた。
「だからか…」
「あ?何が」
「いや何でもない」
訝しげな表情のグレンシールに軽く首を横に振り、再度傷ついた口の端に目を落とした。
だから口数が少なかったのかと納得し、そしてそのまま手で傷をぬぐおうとするグレンシールの手を慌てて止める。
「やめろ、ばい菌入るだろうがっ。…クリームとかは?」
持っていないのかと言外に訊けば、グレンシールは肩をすくめて。
「持ってるわけないだろ、そんなの」
ただでさえ面倒なことを嫌うのだ、わざわざそんな気のきいた物をグレンシールが持っているとは思えない。
それでも一応訊いた自分が馬鹿だったとため息を一つついて、再び手でぬぐおうとするその手を掴んだままゆっくりと顔を近づけた。



「アレン?」



ほんの少しの驚きを含んだ声は無視して、薄い唇の端に舌を這わせた。
僅かな量が故に滲んだ血はもう乾いてしまっており、それを解かすように唇の上を何度も掬えば、濡れた音が小さく響く。
唾液と血が混ざり合い、口内にある鉄の味は薄く広がった。
これくらいだろうかと一旦顔を引いて、至近距離のままもう血が滲んでいないことを確認してから今度は唇を舌で伝う。
冷たいそれに熱を持たせるように、時折チュ、と音を立てながら乾燥したグレンシールの唇を自分の舌で潤して、最後に傷のある方とは反対の唇の端に触れるだけのキスをした。


短いそれが終わってアレンが顔を離すと、触れられている間一切口を開かなかったグレンシールが、目を細める。





「クリームの代わりか?」
「まあそんなとこ。これで治るんじゃないか?」





掴んでいない方の手が、アレンの耳元に触れる。
引き寄せるでもなく唇が重なって、先程自分が潤したそれに再度這わせようとすると逆に絡め取られた。
そこだけはいつもと同じ冷たさであることに無意識に安堵して、お互いの混ざった唾液をコク、と嚥下する。
もう血は滲んでいないはずなのに、何故だかそれは、薄い鉄の味がした。














2005 3 13
9000を踏んで下さった三原哲哉様へ。
タイトルはこれから毎年グレンが口きったらアレンが舐めるってことでこうなりました。
行事じゃないけどグレアレ行事にしてしまえ!
9000踏んで下さりありがとうございました。

ご精読ありがとうございました。