その忍が捕えられたのは、半刻ほど前。 幸村が寝入り、佐助が一息ついた頃だった。 「ぐ……あっ!!」 血が宙に舞い、すぐに地へと落ちた。一段と濃くなるはずの血臭は、しかし既にこの辺り一帯に充満していたために大して変わらなかった。 ゆっくりゆっくりと、佐助は手を進める。 その度に悲鳴と血、皮が肉と切り離され骨が壊される音が空間を満たすが、それに何かを唱える者は今ここにはいない。佐助の放つ気に呑まれているのか、周辺には虫や動物の鳴き声は愚か気配さえも皆無だ。ただ夕餉前まで降っていた雨によって枝や葉に湛えられていた雫が、それより下の枝葉、幹や地に落ちる音のみが無数にある。 その一つ一つまでもを聞き分けながら、佐助はただ、幸村のことを思う。 布団を跳ね除けたりはしていないだろうか。もう子供ではないが、初夏をすぎて雨が連日降るこの季節は蒸す。後で見に行かないとと即座に思う自分はやはり甘いのだろうけれど、これはもう仕方ない。 幸村という存在が、自分の全てなのだから。 目の前で苦しんでいる刺客の表情や悲鳴など、意識に入ってこない。 「っが…ッ!」 刺客の足元には既に土が吸収できないほどの血溜りができており、佐助は足を半歩ずらした。血は付着するとなかなか臭いが消えない。忍ほどではなくとも戦に出る幸村は血の臭いに敏感だ。眠っているから平気だとは思うが、もしそれで目を覚まし、そして心配させでもしたら。 自分のことで心を砕いてくれるのは嬉しいが、こんな刺客のことで幸村の心を乱したくない。 「……っ、…ぅぐっ・ア、!」 カタカタと歯が震えだした。脂汗がにじみ、耐えられる痛みの限界を越えたのだと知れる。 忍は皆、ある程度の痛みには耐性がある。拷問の術を学び、またそれに耐える必要があるからだ。それでもやはり薬や香などの補助なしに耐えるには限界があるし、いかに鍛えられた精神といえども限界を越える痛みがあれば揺れる。悲鳴を出し始めた時点で限界が近いのは分かっていたが、自分が思っていたよりもこの刺客は耐えたらしい。 空にある月の位置にそれを知り、呆れのため息をついた。 「まったく、何のために俺様が戦に出てると思ってるんだかねえ」 戦忍は本来、佐助のように大々的に姿は現さない。その姿はもちろん名前や声、存在すらも認識させずにあくまで武士の影で動くものだ。 佐助も時にはそうして敵の首級をあげたり補助的な行動にあたったりもするが、大体が幸村の背を守って共に戦場を駆ける。そうするのは一人で突っ走りがちな幸村を抑え守るためと、そしてもう一つ。 自分の存在を、知らしめるため。 風魔小太郎は有名だが、それはあくまで闇夜を駆ける同業者の間での話だ。武士が治める戦場において最も名の知れている忍は自分だという自覚が、佐助にはある。 真田幸村の背を守り、常にその側に控えている凄腕の忍。戦場でのその働きは主とはまた違った意味で凄まじく、甲斐の虎と称される武田信玄その人までもが信を置いている猿飛佐助が仕える人物は唯一人。 虎の若子、もしくは紅蓮の鬼と他軍に恐れられる、真田幸村だけだ。 「戦場での俺様を見れば、真田の旦那の首をとれないことくらい分かるだろうに」 名の知れた武士である以上、平常時でもその首を狙われるのは戦乱の世の習いだ。しかしその影に常に、凄腕の忍がいるとなればどうか。 常に幸村の側に控え、忍でありながら武士以上の働きを見せる佐助の存在は、幸村の首を狙う輩を完全に無くすことは出来ずとも、その数を事前に減らすことは充分に成し得る。 だからこそ、幸村は夜でも名の知れた武士とは思えないほどに軽少な行動をすることができるのだ。当然佐助が、佐助がいない時は忍隊の者が常に影に控えているが、それは他国では有り得ないほどに緩い。 ―――その事実を、幸村に知って欲しいとは佐助は思わなかった。 風とも言えないぬるい空気の流れが、頬を叩く。 不快でしかないそれは、しかし忍の鋭すぎる感覚に濃い血臭の中、遥か遠くの雨の匂いを感じ取らせた。遅くとも夜明け前には上田の空を覆うであろう暗雲は、足元の大量の血溜りも土と共に流してくれる。上田の領地内、だが幸村や民は絶対に足を踏み入れない山の奥深くだから見つかる心配も騒ぎになる恐れもないが、雨が洗い流してくれるならそれ以上に都合のいいことはない。 既に剥いだ爪や切り落とした指、後で抉り取る目玉や腸などの臓物も死体も。どこかへと流され、やがて山の糧となる。 「ぐあっ!!っヒ…ッ」 血と脂にまみれた苦無の切れ味はすこぶる悪い。最早喉元や肌を切り裂くことはできないほどに汚れたそれを、しかし佐助は敢えて途中で変えることなく続けていた。拷問には様々なやり方があるが、甚振るためだけの拷問に切れ味のいい苦無を何本も使うのは無駄だからだ。 そう、情報を吐かせるためのものでもない、ただ甚振るためだけにやっているこれには何の意味もない。武田の益にも、ましてや幸村の益になることでもない。 ただこの刺客が狙ったのが、幸村の。 幸村の、首だったから。 苦無の切れ味が落ちる前、この行為を始めた当初に開いておいた肌の内側をぐりぐりとえぐる。 「うあ・アアアアッ!!!」 ぶちぶちと筋肉や血管の切れる音を忍の耳は容易く拾い上げ、だが声が出せるなら痛みの上限はまだまだ先だということを佐助は、そしてこの刺客も知っている。 せめて。 「せめて旦那じゃなくて、大将の首を狙いに来たってんなら一撃で殺してやったんだけどな」 それは日頃見せることのない、しかし紛れもない佐助の本心だ。 真田忍にも信玄にも、そして幸村にさえも、一生見せはしない。 幸村ほどではないが、佐助は佐助なりに武田信玄その人を信頼している。忍である自分に信を置くところは、酔狂だと思いはしても悪い気がするわけもなく、喰えないお人だとは思っても別にこちらの命に関わるほど害があるわけじゃない。その懐の広さはさすがだとしか言いようがないし、草の者どころか側近中の側近でも許されないほどの気安い態度で接することが出来るのも楽でいい。忍が仕えるに、これほどまでに仕えやすいところはないだろう。 だが、それだけだ。 佐助の信玄に対するものといえばそれくらいで、以上も以下もない。信頼はしているが、それは他国の忍のように至極あっさりと切り捨てられることはないだろうと思う程度のもので、例え切り捨てられても、又は切り捨てることになっても何も思わない。仕えやすかったという点で、残念に思うだけだ。 ただ、信玄は幸村の主だから。幸村が慕っているから、だから信玄の命には価値がある。 その首を狙ってきた刺客をわざわざ手間をかけて拷問するほどではなくとも、一撃で仕留める労力を払うくらいには、価値があるのだ。 幸村のために。 「ひぐっ うあ あ、」 声が、途切れがちになってきた。ここまできてしまったら、正気を保っていられるのもあと僅か。 腹を裂き、死人のそれではなく間違いなく生きている人間の色をした腸を引き出す。人間というものは脆いながらに丈夫にできていて、上手くやれば殺さずに腸を出すことは容易だ。ただ生臭いのだけはどうしようもなく、それは我慢するしかない。 まだ温かい、自分の腸でゆるゆると首を締められるのはどんな気分なのだろう。幸村の首を狙った自分の愚かさを、少しは自覚するだろうか。 例え自覚しても、謝罪されても。 怒りだけではない、身の内から湧き上がってくるこの衝動が解けることは、ないのだけれど。 「…ごめん」 ぽつりと、言葉がこぼれる。 苦無の先端を歯の根元にあて、力を込めて掘り上げると数本の歯と歯茎と神経、そして大量の血が足元の血溜りに音を立てて落ちた。同じようにして全ての歯と歯茎をえぐりとった頃には、既に刺客は声をあげていなかった。正気を失ったかとまだえぐりとっていなかったその目を覗き込むと、意外にもその奥には僅かな理性の光があって。 血を出しすぎたからそろそろ死ぬだろうが、事切れるその瞬間まではと再度苦無を口内に突き刺す。 「 っ 、 … 」 ビクリと大きく震え、しかしそれだけだった。本当に死ぬ間際なのだと目を細め、苦無の刃を舌にあてる。自決手段でもある舌を拷問時に切りとるのなら、死ぬ寸前の今が一番適しているからだ。 何の感情も浮かべぬまま、血と脂にまみれた苦無で柔らかい舌を少しずつ切り取っていく。 「ごめんな…旦那」 幸村は知らない。 敵の忍を佐助や真田忍隊の者が闇のなかで屠っていることは知っていても、それがどのような死に様なのかは。 どこまでも真っ直ぐなあの人はきっと、その必要がない限り―――それこそ戦場で幸村と共に戦っている時のように一撃で命を絶っていると、そう思っているだろう。佐助の腕を誰よりも知り、信頼し、佐助を常に暖かいもので満たしてくれる彼は、本当に真っ直ぐな人だから。聞かれたことはないし話したこともないが、きっと幸村はそう思っている。 佐助のことを、誰よりも想っているが故に。 「……ごめん」 単調な作業を続けながら、それでも胸が痛むのは、幸村に対して隠し事をしているから。 義もなく益もなく、ただ自身の感情を鎮めるためだけにこんなことをしている自分を、幸村は真っ直ぐに想ってくれるから。 人を殺そうが裏切ろうが、忍として生まれ育った自分が何かを思うわけもない。 己の心が動くのは、幸村のことに関してだけ。 2008.7/1 黒い佐助が書きたくて。 ところで「真っ黒佐助」って言うと語感がまっくろくろすけみたいですごく可愛いと思うんですがいかがでしょう。 ご精読ありがとうございました。 |