「ぅおやくぁたさぶあああああああああっ!!!!」
が「お館様」であることは武田軍の者ならいざ知らず、それ以外の人間では何を言っているのか分からないだろう。
そんな叫びを口にしつつ突っ込んでいった主の体が空高く舞い上がり、やがて青天の下で気を失うかやけにいい笑顔で大地に寝そべるかする光景は、最早見慣れたというよりは朝餉昼餉夕餉のように、あって当然のことだった。











「毎度毎度、旦那も大将もよくやるよ…」
湯気の中、ぽつりとこぼすと気持ちよさげに細められていた目が開いて「何を言う」という返事が返ってきた。
「男ならば拳と拳で語るものであろう。その上お館様は、まさしくこの戦国で天下をとられるにふさわしい御方。この幸村、そのような機会に幾度も恵まれ誠、望外の喜」
「はいはい、顔赤いからそろそろあがった方がいいんじゃない?」
その後に続く言葉を一言一句違えず予想できる自分は、そんな拳と拳で語り合う二人を止められる唯一の人間だ。
止めると言っても、自分の主がその拳と拳で(以下略)の時間を至上のものとしていることは充分すぎるほどに知っているから、大抵は二人の気が済むまで放っておく。
 戦がとりあえず一段落し、火急の用のない今日はもちろん止める理由はない。
最初はちゃんと「お館様」「幸村」だったそれが「ぅおやくぁたさぶあ(以下略)」「ゆぅきむるあ(以下略)」になり、更に時間を置いてからその場へと行けばやはり、互いにボロボロとなっているくせにやけにいい笑顔な師弟二人が大の字で寝そべっている姿。
甲斐の虎と恐れられる武田信玄その人は自分の従者に、虎の若子、あるいは紅蓮の鬼と他国に名高い我が主真田幸村は自分にその身を助け起こされてようやく立ち上がれるほどだったというのに、湯に浸かってそろそろ上がり時だという今、まるで今日は一日大人しくしていたと言うかのように主は回復していた。
 おそらくは師もそうなのだろう、人間じゃねえだろあんたらと心の内だけで呟いて、佐助は肩を竦める。
言葉をさえぎられたために些か不満げにこちらを見上げていた幸村は、それを見て更に眉根をよせた。
「お前もお館様と拳で語り合えばいいのだ。そうすれば俺が言う意味も分かるであろう」
「いやいや、そんなことしたら俺様の顔がひどいことになっちゃうから。大体忍ごときが、主の主と殴り合いなんてできるわけないでしょー」





「―――佐助」





 しまった、と思う。
風呂場に似つかわしくない、言うなれば人の上に立つ者が持つその強い声に、佐助は自分が時を見誤ったことを悟った。
 もう子供ではないから、毎回毎回言う事はなくなった。
だけれどもやはり、この主が抱く信念は変わらないのだ。

 こんな、忍ごときに。




「お前は真田にとって、最も頼れる忍だ。その働きは真田だけでなく武田にとって益であり、敵にとってはまさしく脅威であろう。事実真田は、お前率いる忍隊がいるからこそ今ここに在る」



 草の者、と。
忌み嫌われ蔑まれることが常である、忍に対して。




「忍ごときなどと言うな。他の者が知らなくとも、俺は誰よりもお前の働きを知っている」




人の嫌う暗殺や諜報のために闇夜を駆け、恩賞次第では容易く敵に寝返る忍は、武士の治めるこの戦国において人としては扱われない。
ただの道具だ。
それは忍からしても当然のことで、佐助自身もそう思っている。
 なのに。
道具を使う側の人間なのに、この人は。






「他国がどうだろうと構わん。その存在に胸を張れ、佐助。真田に仕える限り、自身のことをそのように卑下することは主であるこの俺が許さん」







 佐助、と。
最後にもう一度呼ばれるそれに、どうして逆らえるだろうか。





「―――御意。……幸村様」




この歓喜を、幸村が知ることは一生ないだろう。
 恩賞など関係なく、ただただこの人に仕えたいとひたすらに思う、自分の心の内など。
感情を殺すことを叩き込まれている忍が、溢れ出て来るそれを抑えきれずに笑んでしまうその重大さを、彼は知っているのだろうか。
幼い頃より彼に仕え、今まで数えられないほどに受けたこの衝動ともいえる気持ちを言葉にのせれば。



 湯煙の中、主は満足げに笑った。












それは滅多に呼ぶことのない、唯一絶対の主の名。


























2008.3/21
日記にのせたものですが、正真正銘初めて書いた真田主従です。
ちなみに佐助は疲れ果てた幸村を湯殿まで連れてきて湯にぶっこんでそのまま壁際で待機。

ご精読ありがとうございました。