ピイ、と高い音が響く。
口笛よりも余程大きく広く伝わるそれは、忍の技として多種多様に使われる。
しかし今自分が吹いているのは忍とは何ら関係のない、我が主の純然な関心を満たすため―――言ってしまえば、暇つぶしのためだった。
「本当に遠くまで響くな!」
先ほどから佐助が指笛を吹くたびに、幸村が嬉しそうに顔を綻ばせる。
ただの指笛だ、それほどのものだろうかと疑問に近いものが生じるが、大事な主が喜んでいるのにもちろん悪い気がするはずもない。
童のように次は次はとこちらを見やる眼差しに苦笑して、今度はもっと遠くまで響くように僅かに指を調整する。
 そして生じた音は、青空に吸い込まれるかのように高い。
「おお!空に昇るようだ」
まるで音自体が見えているかのように、幸村が空を仰いだ。
 喜色を満面にしたその横顔に、既に疲れはない。不得手とする書をしたためるために部屋に篭り、そのせいで下降気味だった機嫌はどうやら大分回復したようだ。
元々は書に詰まった幸村が少しの休みをとった際の、暇つぶしのために吹いて見せただけだった。思いのほか幸村は喜んで、惜しげもなく笑顔を見せてくれたりして、図らずも佐助の気分まで普通の状態から機嫌の良いものとなってしまった、が。
ふと冷静になってみれば、幸村が書から離れて半刻は経ってしまっただろうか、これはもう小休止どころではなくなってしまっている。機嫌が回復したのなら切り上げ、書の続きをさせなければと、そうは思うのだけれど。
「佐助、高い音も澄んでいていいが、低くはできぬのか?」
「はいはい」
 嬉しそうに笑う幸村に、好き好んで水を差したいと思うわけがない。
大体、今日の書はあの独眼竜へと宛てられるものだ。中身はただ一対一の真剣勝負を、というものだと分かってはいるが、やはりおもしろくないのも確かで。
 佐助が絶対に入ってはいけない、幸村の全てが独眼竜だけで満たされるあの瞬間を少しでも遅らせたいと思うのは、子離れのできない親心かそれとも。
己の抱くものがどちらなのか、今のところ佐助には分かっていない。しかし独眼竜を気に食わないと思っていたのはそれこそ初めて顔を合わせた時からで、幸村を部屋に戻さなければという考えは至極あっさりと、佐助の中でなかったことにされた。
 幸村があの男との対決を心待ちにしているのは変わらぬ事実であり、やがてその時は多少遅くなろうとも必ずやってくるのだから。
一日くらい大した違いじゃないだろうと、そんな思いは露ほども見せずに幸村所望の音をまた生み出した。
「おおお!」
もう何度吹いたか分からないほどの指笛はもちろん、元々がよく通る幸村の純粋な驚きと感心からあがる声は、屋敷中の忍の耳に届いているだろう。喜ぶ幸村の横顔をやけに和んだ気持ちで眺めながら周囲を探れば、近くはない距離にいくつもの薄い気配がある。
中でも特に薄く感じ取りにくいのは、おそらく才蔵だ。あの男は霧隠の名を持つ通り、その術と己を隠すことに格段に長けている。
この音を聞き、しかし真田忍の間で使われる音のどれにも当てはまらないことから忍隊の者には、特に才蔵にはほとほと幸村には甘いなどと思われているのが目に浮かんだ。が、忍隊が幸村に甘いのは本人を除いて最早周知の事実、同類である彼らにどう思われようと痛くも痒くもない。
 それから更に音程を変えて何度か吹いてやれば、幸村はその度に驚いては笑って。
素直に育ったなあなんて思うあたり、やはりこれは親心なのだろうか。
「指先一つでそこまで音を変えるとは…!さすがは佐助だな」
「誰でもできるって。練習すれば、旦那もすぐにできるようになるよ」
「誠か!!」
言えば幸村が顔を輝かせる、そこまでは予想通り。しかし何年側にいても突飛な行動をしてくれる主の性格を、珍しく佐助は失念していた。
らしくもなく己が抱くものについて考えていたからだろうか、今日は非番なために軽装で、故に手甲に包まれていない佐助の手を幸村が掴み。
 あ、れ?と異変を感じたのは、指先に暖かい、湿った―――。
「…む?鳴らぬな」
ちゅ、と微かな音がした。もっと深くか、と暢気な声と共に、親指と人差し指が更なる熱に包まれる。
「………………え、ちょ」
 ―――真田忍隊を束ねる長、猿飛佐助。
常に飄々とし、しかしその実力は数多くいる真田忍の中でも随一のもの。幾多の任務や戦場での冷静な判断は無論のこと、突飛な主のおかげで大抵のことには動じなくなったと自負もある。
しかしこれは。今起こっているこれは、さすがに。
 忍としても佐助個人としても大切な主である幸村が、己の指をくわえている眼前の光景。
俄かに信じることはできなくて、呆然としたまま数秒が流れる。
 一定間隔で吹きつけられる息、指の第二間接あたりまでを覆う熱。
指の腹にあたる歯に、時折爪と指先にあたる柔らかい濡れたそれは―――幸村の、舌。
「っ、ちょ、旦那!何してんの!!」
「む?お前が練習すれば俺にもできると申すから」
「俺様のじゃなくて自分の指!自分の指でやるもんだろこういうのは!」
「?何を怒っているのだ?」
きょとりと見返してくる幸村は、自分のやっていることを分かっているのだろうか。むしろ何で分からないんだよ、と泣きたいような騒ぎたいような気持ちが湧き立つ。夫婦で戦場に立っているのを見るだけで破廉恥と騒ぐくせに、何故おかしいと思わないのか。
「佐助?」
 ああ、もう。
口からは離してくれたが未だ自分の手を放さない幸村に、がっくりと項垂れる。
「…怒ってるんじゃなくて、驚いただけだよ。普通そんなことするなんて思わないだろ」
「何故だ?俺の指でやるより、器用で手慣れているお前の指で吹いた方が絶対に早く吹けるようになるぞ」
「そういう理屈なのね…」
放して、と言う風に自由な方の手で幸村の手を軽くたたけば、目的を達成していないからか些か不満げに佐助の指先を見つめながら、それでも解放してくれた。―――自覚してしまった今、そんな表情にすらも別のことを考えてしまって嫌になる。
「ほら、暇つぶしは終わり。早く独眼竜への書状仕上げちゃったら?」
「そうであった!佐助の指笛ですっかり忘れていた。…うむ、よい気分転換になったぞ。佐助」
「そりゃよかった」
立ち上がり、笑顔で自室へと引き返すその背を見送ってから。
佐助の口から、深いため息がもれた。その場にしゃがみこみ、明るい色の髪をがしがしとかきまぜる。
なんだかもう、色々と有り得ない。ついたったさっきまでは親心かそれとも恋心かと悩んでいたのに、この有様は何なんだ。
 思い出すまでもなく浮かぶのは、幸村の熱。
指を包んだ湿った温かさ、痛みを感じないほど僅かに指に食い込んだ歯の硬さ。何よりも爪と指先を濡らした舌の柔らかさと、忍の耳が拾い上げたちゅ、という濡れた音。
それらから自然と導き出されてしまうのは、生まれ持った性が故に自然な、しかし下卑た妄想だ。幸村がそれをする姿なんて想像できないと思うのに、男の妄想力というものはいらぬところで力を発揮する。
 眉根を寄せて頬を染め、口に含みながらもこちらを見上げる旦那はってああもう俺最低だ。
「何が親心だよ…」
 親だったら欲情しねえだろ、と。
今思えば暢気に考えていた自分に、悪態をついた。



















2008.6/18
こういう気づき方もおもしろいですよね。

ご精読ありがとうございました。