人間の声がする。 一つはこちらに近いがとても小さく押し殺したもの、一つはまだこの山に入って間もないが多数、声を張り上げているから煩いことこの上ない。加えてこの山に住む動物達が怯える気配までもを自分は感知してしまうから、このまま昼寝を続けるのは少し無理がありそうだ。 顔をしかめ、太い木の枝に横たえていた体を起こす。耳をすますと、聞こえてくるのは。 ――まだ見つからぬか! ――だが、この山に入ったのは間違いなかろう。一刻も早く捕えねば。 「ああ、そういうことね」 数にして数十、その一人一人の言葉を聞き分けるまでもなく大方の予想がついた。ため息をついて大木の幹に背を預ける。 真田が、落ちたのだ。 その報を聞いたのは十日ほど前。空を行く鳥が落としていったそれは、しかし自分にとってはどうでもいいことだった。 戦乱の世とは言ってもそれは人間達だけの話で、他の生き物にとっては何も変わらない。勝手に争い、勝手に治め、勝手に滅ぶ。誰がその頂に立とうがそれに縛られるのは人間のみ、自分達はただ己の好きなように自然のなかで生きるだけだ。 だが稀に、こうやって面倒事が舞い込んでくることがある。人間達の勝手な言い分によるとここら一帯は真田の領土だったらしいが、その真田が落ちた。先ほどの会話から察するに、未だ麓にいる数十の人間は残党狩りだろう。 さて、どうするか。 人間に興味があるわけではない。無意味なことを繰り返す人間を暇人だと思いはしても同情する気は一欠片もなく、ただこの山から去れと思う。刀や鎧がぶつかり合う音は耳障りで、しばらくはこの山で野宿を重ねるだろう―――今も耳に届く、この押し殺した声の持ち主を見つけるまでは。 ――…っく、……、…。 おそらく、まだ子供だ。本来は高いだろう声が、無理やり喉の奥に留められている。 寿命はありはしても老いることのないこの身からすれば、人間の一生など瞬く間の出来事にすぎない。そんな人の子とくれば、この世に生を受けた年数は両の手の指で足りるほどだろう。 そんな子供がこの奥深い山の中、一人で泣いている。 「………」 僅かな沈黙の後、軽い息をついてゆっくりと立ち上がった。夏の強い陽射しが、だけど葉に遮られて木漏れ日となって降りそそぐ。元々背の高い木のかなり上部にいるために通る風は冷たくて、人間さえ来なければ心地良い昼寝ができていたのに。 二度目のため息をついて、枝を蹴った。不規則に立ち並ぶ木々の枝々を伝い、幼い声のする方へと向かう。 人間を助けるつもりはない。泣いている人の子も、山を騒がせている男達も。 なのに人の子の元へと向かうのは、気になるからだ。 生まれ持った狐の性だろう、気まぐれという悪癖とも特徴とも言えるそれが久々に浮上しているのを自覚しながらも、その足を止めることはしない。 しばらく人の子とやらを見ていないから、どうせ一目見れば満足する。気が向いたらこの声の主を残党狩りの連中の前に出してやってもいいし、そうでなければ『内』へと戻るのもいい。時の流れが違うから、あちらでゆっくりしていれば数年なんてすぐだ。人は変わらず争っているだろうけれど、それこそ関係のないことなのだから。 「……っ、うー…っ」 声が大分近い。 幾本もの木々を越えたところで、枝から枝へと飛び移っていた足を止める。下を見やれば地に倒れた人間と、それに縋りついている人の子の姿。こちらに背を向けているから分からないが、その小さな体から察するに思っていたよりもずっと幼そうだ。 最も人の子のことなど知るわけがないから、顔が見えても正確な年の頃をあてるのは無理だろう。 「う…っく…」 倒れた人間に縋る小さな手は震えていて、少しでも力を込めれば折れてしまいそうなほどに頼りない。実際簡単に為し得るのだろうが、幸いにも気まぐれな狐の性はそれには向かなかった。 代わりに浮かんできたのは―――純然たる、興味。 「どうしたの」 「っ!!」 枝からふわりと地に降りて、声をかける。こちらが予想していたよりも幼いくせに声を押し殺す幼子に、興味がわいた。 まるで野生の獣だ。生まれながらに生きる術を知っている彼らを、自分は決して嫌いじゃない。人の子は無闇に泣き叫ぶものだと思っていただけに、そんなにも幼い身で自らを御している様はひどく意外で。 勢いよく振り返った幼子はその瞳に、頬に肩に全身に恐怖をまとっていた。幼いながらに自身の置かれた状況を理解している、頭は悪くないその様子に僅かに目を細めた。 「…の、者か…」 掠れてはいても聴き取れたその名は、真田を落とした武家のものだ。どうやら残党狩りの人間と思われているらしい。 人がいくら騒いでも、天も地も何も変わらない。なのにいつまでも愚かな争いごとを繰り返している、そんな人間に間違われるのは心外甚だしいことこの上ないが、幼子の置かれた今の状況ならば無理もないかもしれない、と。 いつになく他の存在の気持ちを推し量って、ゆっくりと首を振った。 「違うよ。…人間に見える?」 問いかければその内容に驚いたのか、大きな目から怯えと恐怖の色がかき消える。それは一瞬のことですぐに戻ってしまったが、それだけではなくまた違う色が混ざっていることに気付いた。 あまりに素直なその様が少し、おもしろい。 「……けものの耳が、はえてる?しっぽ、も」 全身をまじまじと見てようやく人間とは違うことに気づいたらしい。ぎこちなく告げられたそれに尾を振ってやると、怯えと恐怖以外の色の比重があからさまに増えて。 「天狐だよ。分かる?天に狐と書いて、天狐」 「きつね…」 言い含めるようにゆっくりと言の葉を紡いだが、幼子には難しいのだろうか。天狐の方ではなく狐の部分を呟いた人の子は、再度まじまじと見上げてくる。その大きな目には流れずに留まっている涙があって、そこでようやく、幼子の後ろに倒れている人間のことを思い出した。 近寄らずとも香ってくる死の匂いの中に、濃い血臭がまざっている。この山では未だ残党狩りの者達に見つかっていないから、ここに来る前に射られたか斬られたか。数日前から少数の人間がこの山に入っていたのは知っていたが、ろくな手当もできなかったろうにこんな奥深いところまでよく生き長らえたものだ。おそらく他の者はここに来るまでの山中で力尽き、この人間が幼子の最後の頼りだったのだろう。一見何でもない装いだが、よく見れば幼子は上質な着物を纏っている。 真田に縁深い家の子供かと検討をつけたところで、幼子の表情が変わった。 「もののけ、なのか…?父上からきいたことがある」 「あんた達の側から言ったらそうだね。最も、人間達は自分の都合で物の怪とも神様とも呼んでくるから、言い切れるわけじゃないけど」 人間が勝手に呼び分けているだけで、物の怪や妖、精霊や神などに何ら違いはない。人を喰う種もいれば好んで人を助ける種もいる、ただそれだけだ。この身が属する狐の種はその位に関係なく気まぐれな性を一貫して持つものだから、関わった人間によって大きく印象が変わる。 この幼子にとって、自分はどちらになるのだろう。 突如浮かんだ他愛もない思考に、すぐに笑みとも言えないほど僅か、口の端があがった。決まっている。自分はこの幼子に、何らの加護も与えてやるつもりはないのだから。 「…きつねは」 ぽつりと呟いた幼子はいつの間にか俯いていて、その両手は小さな拳を握っていた。その肩も体も、本当に小さい。運よく残党狩りから逃れられたとしても、山の獣の標的になってすぐにその生が終わるのが目に見えている。 「……きつね、も、弁丸をたべるのか…?」 弁丸。 物の怪なのかという問いに肯定したからだろうか、怯えと恐怖が舞い戻ってしまった瞳を見下ろしながら、その名を何度か心中で呟く。それが幼子の名前かと思いつつも、以前に聞いたことがあったような。その時も確か、空を行く鳥がさえずりを落としていって。 「きつね…?」 小さなその声に、ほんの僅か内へと沈んだ意識が浮上する。答えない自分に焦れたのか、瞳どころか表情にも怯えが走っていた。 「…食べないよ。天狐は人を喰う種じゃないからね」 ―――人間というのはどうにも面倒だと思うのは、こういう時だ。こちらは何も言っていないのに勝手に想像をして勝手に怖がり、勝手に崇拝して。 それでも投げ出さずに相手をするのは、この幼子に興味があるから。一目見れば満足すると思っていたのが興味に変わり、今はそれが更に大きくなっている。どうしたものかと思う一方で、幼子の表情や返答を楽しんでいる己がいるのだ。 言えばほっとした表情を見せて、幼子は―――弁丸は体の力を抜いた。子供故にその辺の駆け引きはできない、あからさまな様に近づいても平気かと足を進めると、顔を見上げては来たが逃げようとはしなかった。 「もし、俺様が食べるって言ったらどうするつもりだったわけ?」 触れられるほど近くまでいっても、弁丸はひたすらにこちらを見上げてくる。突如降ってきた問いにも、一瞬揺らぎはしてもその視線が完全に逸らされることはなかった。 「……ち、ちうえが」 「うん」 「弁丸だけはっていってたから…、……にげる」 「…生きろって?」 こくりと頷く様は本当に幼く、そして言っていることはそれ以上に稚拙だ。 例え残党狩りがいなくとも、この奥深い山で人間の子が一人で生きていけるはずがない。今は麓の人間に怯えてはいるが、夜になれば彼ら野生の獣は本能に従って獲物を求め始めるのだ。こんな幼子など一瞬で、その牙や爪の前に倒れ伏すだろう。 そこまで考えて、ふと浮かんだのは。 こちらを見つめてくるその大きな目も、明日には濁っているのかという、惜しむそれ。 「………」 こちらの腰にも届かない小さなその姿を、改めて見つめる。 ところどころ汚れてはいるが、そこに倒れている人間を筆頭に色々な者達がここまで必死に守ってきたのだろう。怪我は見当たらないし、何よりも幼子からは血の匂いがしない。ふっくらとした頬を見るに痩せているわけでもなく、変な病魔に冒されている気配もない。 人の子をよく知るわけではないから些か雑かもしれないが、それでも粗方問題はないように見える。 「き、きつね…?」 「ねえ」 ふわりと、その髪に触れる。 人はもちろん人の子に触れるのは初めてで、しかし同族の子を撫でてやるようにしてやれば、思っていたよりも柔らかい感触を掌に感じた。弁丸もまさかそうされるとは思っていなかったのか、驚いた表情そのままに見上げてきて。 当たり前といえば当たり前だが、あまりに素直なその様に小さな笑いがもれる。 本当に、幼いのだ。この人の子は。 人間であるが故の身勝手さも未だ形成されていない、目の前の存在に頼ることでしか生きられない幼子。それでも育ちのためだろう、無暗に泣き叫ぶことなく自身を抑えることを知っているそれは、野生の獣と何ら変わりがない。 ―――おもしろい、と。 気まぐれな狐の性が囁いた。 「っ!!」 再度口を開こうとしたところで、がさ、と弁丸の背後で草むらが動いた。びくりと大きく震えた体は、しかしそこから小さな兎が出てくるのを見て途端に弛緩する。 ああ、残党狩りに怯えているのだと改めて思って、そして。 「っ……き、つね…?」 「俺様と来る?」 小さいその体を抱き上げるのは容易かった。今ので涙の浮かんだ目じりを指でぬぐってやり、頬をなでる。思ってもみなかったのだろう、弁丸は大きな目をぱちりと一度、瞬いた。 一目見たらすぐに去ろうとしていたのに、この心境の変化は何なのか。自分でも不思議だが、しかしこの気まぐれこそが、狐を元とする妖の性なのだ。それを自分はおもしろいと感じさえすれ、嫌に思ったことは一度としてない。今回のこれがどう作用するかは分からないが、それすらもただ、おもしろい。 「…きつねと?」 「うん。嫌?」 抱き上げた幼子を覗きこめば、大きな目が見返してくる。決して逸らそうとしない様からは気の強さが見てとれて、これならうるさく泣くこともないだろう。 「やだ?」 重ねて問えば、少しの間の後にふるりと小さく首が振られる。小さな手が、こちらの衣を強く、ぎゅっと掴んだ。 「…きつねと行く」 潤んだ目は何を思ってのものだろうか。返された言葉に満足げに笑い、ふと視線を麓の方へと向ける。意識して遮断していた音を拾えば、耳障りな刀や鎧、残党狩りらの声が途端に耳に届いた。 奥深いこの山は崖や急な斜面が多く、明け方から朝方には霧も出るから人間には酷だろう。山の獣はそれを知り尽くしているから、どうにかうまく逃げるはずだ。 「きつね?」 人の子からしたらあらぬ方向を向いたことが不思議なのだろう、問いかけを含んだそれに何でもないよと笑って答えた。―――自分のものにすると決めた以上、不用意に怖がらせる必要はないのだから。 片手で弁丸を支え、一方の手を宙にかざす。するとゆらりと空間が揺れて、『内』の景色が見えた。驚く弁丸の背をかざしていた手で撫で、あれが、と口を開く。 「あれが俺様の世界、というよりは国かな。あそこに入っちゃえばこっちとは一切が遮断されるから、安心して暮らせるよ」 「すごい…すごいな!」 ここにきて初めて子供らしい声をあげた弁丸は、その表情も明るい。きっとこれが、この子供の素だ。初めて見るそれに、悪い気はしなかった。 「じゃあ行こうか。それと、俺は狐じゃなくて天狐。分かった?」 「うむ、きつね!」 「だから狐じゃなくて…ああ、そっか」 いつまでかは分からないが、とりあえずしばらくは一緒にいるのだ。ならば、と幼子の体を抱えなおして。 『内』へと足を踏み入れる。首に縋りつく腕の力が強くなって、何故だか笑みが浮かんだ。 「―――俺様の名前は、佐助」 2009 8 28 1.タイトルは最初「お稚児物語」でした。 2.それは直球すぎると思い、次に浮かんだのが「狐に嫁入り」でした。 3.そのまますぎると思い、次に浮かんだのが今のタイトルです。 結果:やっちまった感が否めません。 ご精読ありがとうございました。 |