5. 「アレン、どうした?」 将軍の声に、ハッと目の前の景色が飛び込んできた。 慌てて顔をあげれば、恩人であるその人の怪訝そうな視線。 「いえ、何も。申し訳ございません、少し気を抜いていたようです」 「そうか。…少し、休むか?」 「…休み、ですか?」 その言葉に目を瞬けば、将軍はくつりと苦笑して。 「そんな意外そうな顔をしなくてもよかろう。思えば、この城に来てからずっと、お前はまとまった休みをとったことがなかったな」 「いえ、それは…」 それは別に、休む間もなく仕事があったからというわけではない。 確かに下される命は多かったが、だからということではなかった。 ただ、拾ってくれた将軍に恩返しがしたくて。 休んでるその時間が、勿体無かった。 忍になるまではその訓練が、忍になってからは一つでも多くの仕事を請け負えることが嬉しかった。 他の忍が休暇をもらう中、アレンだけは常に城に控えては闇夜を駆けていたが、それは自分でやりたくてやっていたことだ。 それを将軍が、僅かでも気にかける必要はない。 アレンの思うことを察して将軍は更に苦笑を深め、ため息にしてはあまりに柔らかい息をついた。 「お前が私に尽くそうとしてくれていることは十分に知っている。お前がどのような努力をしてきたのかも」 「将軍…」 「今までずっと働きづめだっただろう。一週間くらい、ゆっくりと休んでも誰も何も言わんぞ」 「…いえ」 誰も何も、ということはない。 これみよがしに、先ほどの者達が騒ぎ立てるだろう。 だがそんなことはどうでもよかった。 今は、ただ。 「アレン?」 「…休みではなく、お願いがございます」 「どうした」 あまり露にはしないが、将軍が僅かに目を見開くのは当然かもしれない。 今までアレンは、どんなに手柄をたてても何も言わなかった。 将軍が言っても何も求めず、ただ静かに控えるだけで。 そのアレンが何かを求めているということに、将軍は俄かに喜色をその顔にのせる。 「新たな部屋か?それとも誰か好きな女でもできたか?お前はいい顔をしているから、どんな女でもすぐに慣れるだろう」 この目の色を恐れないのは、将軍だけだった。 だから何だと言わんばかりの態度で、恐ろしいと訴えてきた当時の忍の頭を相手にすることもなかった。 私やそこらの者よりもいい顔をしていると、笑って言ってくれた。 自分の顔の造形などはどうでもよかったが、将軍が笑ってくれることが嬉しかった。 それだけを望んできたが、今アレンの内にはそれともう一つ。 望みがあった。 「部屋は今のままで十分でございます。女人も、興味はございません。それよりも」 微かに笑んで言えば、明らかに将軍は落胆の色を見せた。 その心遣いを嬉しく思いつつも、アレンはその顔をひきしめる。 「先ほど申し上げたあの忍。その者の国へ、偵察に行くことをお許し下さい」 6. 風が冷たい。 屋根から屋根へと跳んで、辺りに気配がないことを確認する。 すっかり季節は冬となり、雪でも降り出しそうな寒さがアレンを刺す。 白い息をはいて空を見上げれば、月は暗雲に覆われて見えなかった。 将軍に許された期間は一週間。 国を発って、既に二日が過ぎていた。 願いを申し出たアレンに将軍は呆れた表情でそれでも許し、更には帰ってきてから一週間の休みをとるようにと言ってくれた。 それができないならばここから追い出すとまで言った将軍の心遣いが、恐れ多い反面とても嬉しかった。 この上なく素晴らしい方に拾ってもらえたと、本当にそう思う。 敵国の忍が異人だったということだけは、言えなかったけれど。 今までどんなことでも包み隠さずに報告してきた自分が嘘のように、異人ということだけは、言えなかった。 おそらくは下忍、それでもアレンをてこずらせたという敵国の鼠に、将軍はひどく感心を持った。 その偵察に行きたいというアレンを、仕方ない奴だと苦笑しながらも送り出してくれた。 ―――言えば多分、将軍は許してはくれなかっただろう。 アレンがどんなに、例え上手く隠していても、同じ異人を求めていることを将軍は知っている。 敵にねがえるなんてことは誓ってするつもりはないが、それでも心が弛むのは確かで。 それは忍としてのアレンの能力を、著しく下げるだけだ。 だから、やってきた。 誰よりもそのことを分かっているからこそ、将軍には告げなかったのだ。 同じ異人―――独りではないと、そう感じた時のあの安堵感。 危険だと思う。 突然目の前に現れたあの忍は、同じく忍であるアレンに悪影響しか及ぼさない。 また来たら、会ってしまったら。 きっと求めてしまう。 どんな人間なのか、今までどういう生活をしていたのか、あの男のことを全部。 きっと知りたくなる。 だから、自らやってきたのだ。 自分の手で、決着をつけるために。 独りではない。 その安堵感は、自分には邪魔だ。 これからも将軍の忍として、役に立つ為に。 視線を厳しくして、アレンは前を見つめた。 荘厳にそびえたつこの城のどこかに。 あの男はいるはずだ。 拳を握り、高く跳ぶ。 冷たい風を受けながら、内心で呟いた。 この手で必ず、殺してみせる。 7. キン、と高い音が響いた。 これでは他の忍もやってくる。 舌打ちして跳んで離れると、相手は僅かに驚いて。 そしてぽつりと呟く。 「…なんだ、お前か」 その声は微かに気の抜けたもので、たった今まであった鋭い気配までが解かれた。 まるで、自分が各下のような相手の態度。 矜持を刺激されてアレンは再度、必ず殺すと決めた相手へと向かう。 刀と刀が重なり合う音はとても響く。 先ほどのも、城中とまではいかなくとも忍の者は気付いただろう。 本当はすぐにでも隠れた方がいいのは分かっていたが、目の前のこの男の言動は、アレンの矜持を傷つけるのに十分だった。 怒りのままに勢いよく相手の喉下めがけて刀をふりかざし、しかし間一髪で避けられる。 続いて攻めるが、全て避けられて。 二日前よりも、動きはよくなっていた。 「くそっ…!」 そして戸の向こうから近づいてくる気配はどんどん増え、さすがにこれ以上は危ない。 撤退しようと刀をしまい、屋根裏へ跳ぼうとしたところで。 いきなり、腕を掴まれた。 「っ!?放―――」 「屋根裏はやめろ。奥の部屋に行け」 「…、え?」 言われた言葉が、一瞬理解できなかった。 木々の葉よりも薄い色が至近距離にあって、時が止まる。 そのまま穏やかに腕が放され、相手が戸を振り返ったため視線がそれた。 体が動き、だが近づいてくる気配もすぐそこで。 瞬間的に跳んで、そして―――アレンが奥の部屋の戸を閉めるのと、さっきまでいた部屋の戸が開けられるのは、同時だった。 「何事だ!」 引き戸が大きな音を立てて叩きつけられ、朗々とした声がアレンまで届いた。 気配を探れば人数は八人ほど、忍とは思えない騒がしい気配に敵国の者とはいえ眉をしかめる。 「鼠がまぎれこんだだけだ。いきなり襲ってきた」 「鼠だと?」 対して、あの男はひどく淡々としたもので。 最初にどなりこんできた者とは違う声が、苛立ったように応える。 「屋根裏を伝って逃げたが、まだ城内にいるだろう」 「どこの者だ」 「さあな」 にべもないその素っ気無さに、最初にどなりこんできた男―――恐らくはこいつがこの中での長だ―――を除いた七人が殺気立つ。 だが慣れているのかあの男の気配は微塵も動じず、息を殺したままアレンは微かに目を細めた。 ゆらりと、長である男が一歩動いたのが分かる。 「ほう。だがもしかしたらまだここに…例えばその奥の部屋にいたりするかもしれんな。見ても構わぬだろう?」 その対応からして、自分の標的である男のこの城での地位を僅かながら悟る。 やはり異人はどこでも同じようなものなのだと、気配は殺したまま刀の柄に手をかけた。 例え八人いようが気配も殺せないような者に負ける気はなかった。 あの男も自分を庇いはしないだろうし―――そもそも、何故自分はここにいるのか。 屋根裏ではなく、あの男の言う通りにしてしまったのかと疑問が募る。 時間がなかった、とは言えない。 この奥の部屋に走り戸を閉める間があれば、屋根裏に跳ぶのなんてアレンにとっては容易いことだ。 なのに何故と思ったところで、隣の部屋の気配が一つ動いた。 どなりこんできた奴らの誰かだろうと思った直後、違うことに気付く。 もっと、静かな。 「見たいのなら見ればいい。だがもし、その者がいなかった場合は」 そしてぞくりと、身が震えた。 凄まじい殺気が閉じられた戸までも突き抜けてアレンを襲う。 思わず肩がゆれ、見えないと分かっていても隣の部屋を凝視する。 これは、この気配、は。 「それ相応の償いをしてもらうぞ」 カチャリと刀を抜く音。 淡々としていたのが嘘のような、ひどく冷たい。 下忍、のはずだ。 二日前のあの夜、あの時の動きは確かに下忍のもので、実際押していたのはアレンだった。 だが、今のこの殺気は。 「…っ…」 唾液を飲み込むだけで、ひどく疲れる。 上忍である自分が緊張しているのだと、そこでやっと気付いた。 「ひ…っ」 「うわ、うわああっ」 ばたばたと慌てた足音が幾重にも重なって、しかしすぐにそれは小さくなっていく。 力としては下忍にも及ばないような連中だ、あの殺気に耐えるのははっきり言って無理だろう。 自分でさえ震えたのだからと、悔しくて唇を噛む。 音が完全に聞こえなくなって、そこでようやく、フッと殺気が消えた。 8. 開けたままになっている戸を男が閉めてから、アレンはそろそろと奥の部屋から出てきた。 振り返った男は既に刀をしまっていて、先ほどの殺気は微塵も感じない。 「で、俺を殺しに来たのか」 「…そう、だ」 「だろうな」 黒装束ではなくゆったりとした衣を纏う男はアレンの返事に頷き、壁を背に座った。 片膝をたててアレンを見つめる。 「俺がお前だったらやっぱりそうするさ。忍に拠り所は邪魔なだけだからな」 殺すんだったらさっさとやれと、まるで何でもないことのように言う相手にアレンは眉をよせる。 諦めているわけでもないが、必死で生きようというわけでもない態度。 どうでもいいことのように言う男が、不思議で。 それに気付いた男が微かに笑う。 「命が惜しくないわけじゃないが、お前みたいに仕えようって人もいないんでね。異人ってことで城の奴らにも狙われてる身だ」 「…何で」 将軍のことが分かる、と睨めば、男は淡々としたまま見上げてくる。 「二日前、お前の気迫に異人としての意地だけじゃないものを感じた」 俺とは違う、と言った男は座ったまま、動こうともしない。 先ほどの殺気を放った人物とは思えないほどに。 「…お前、下忍なのか?」 「数年前に拾われて、数ヶ月前忍になった」 「あの、殺気は?」 「俺を殺しに来たんじゃなかったのか?」 見上げてくる緑に、目を伏せた。 分かっている。 相手のことを訊いてしまうのは駄目だと、分かっている。 自分のために、忍として将軍の役に立つためには、拠り所は必要ない。 初めて出会った、自分以外の異人。 それは自分の中で簡単に、将軍以上の存在となることは分かっている。 ずっと独りだと思っていたのに、独りではないという安堵感。 それは忍としての強さを簡単に鈍らせるもので、だから殺しにきたのに。 この土壇場で、アレンは自分の心が弛むのを感じた。 もっと知りたい。 自分と同じ異人であるこの男が、どんな人間なのかとか―――どんな、名前なのかとか。 ずっと求めていた自分以外の異人が前にいるのに、冷静でいられるわけがなかった。 「……あの、殺気は?」 重ねて問えば、言っても無駄だということを悟ったのか男は軽いため息をついて。 「…異人ってだけで、実力も伴わないやつにこきおろされるのは気に食わないからな。本気で殺そうと思えば、誰だってああなるだろ」 それは違う。 いくら殺そうと思っても、単なる下忍の殺気では上忍を圧倒させることはできない。 多少はできるだろうが、あそこまで緊張するような殺気をアレンは感じたことがなかった。 自分に向けられたわけでも、なかったのに。 「…お前…」 資質が、あるのだろう。 上忍になる資質が、この男にはある。 二日前の夜を思い出してもそれは明らかで。 殺すなら今しかないということも、分かっている。 下忍である今なら殺せる。 分かっている、けれど。 「俺を殺そうとは、思わないのか…?」 あの殺気をむけられて、尻込みしないとは言えない。 一度目よりはマシだろうが、なんせあれはアレンにむけられたものではなかった。 自分に向けられたその時、ちゃんと動くことが出来るかは分からない。 だが男は、何を言っているんだというように眉を顰めて。 「何で。初めて会った同じ異人のお前を、何で殺すんだよ」 それは、アレンがずっと抑えてきた気持ちで。 「お、れは、お前を殺そうとしてるんだぞ」 「お前が上忍で、仕える奴がいるからだろ。俺は下忍で、仕える奴がいない」 だから、心の拠り所ができても邪魔にはならない。 独りではないと安堵を感じ、それ故に仕事に支障をきたしても苦痛にならない。 そう言う目の前の相手が、ひどく辛かった。 向かってくれば、殺せた。 初めて出会った異人であっても、向かってくれば殺せた。 だがこの男は淡々としているだけで、殺すんだったら殺せばいいと、命が惜しくないわけでもないのにそこにいる。 最初に斬りかかった時、大して驚きもしなかったのは予想をしていたからか。 それでも、同じ異人だから大人しく殺されても構わないというその気持ちが、分からなかった。 自分だったら。 もしアレンが彼だったら、殺されるのを待つのではなく一緒にいたいと。 そう、思うのに。 9. 「おい?殺すんじゃないのかよ」 俯いたアレンに、怪訝そうな声がかかる。 何で、そんな。 刀の柄をぐ、と握った。 将軍の顔が浮かんだ。 野垂れ死にそうになった自分を拾ってくれた人。 忍として生きる道をくれた人。 大恩ある、一番尊敬している人だ。 それが一瞬でかすんでしまう、そんな存在が目の前にいる。 「…れが」 「あ?」 もう、駄目だった。 「誰が、殺すかよ」 「…お前」 緑の目が見開かれる。 思ってしまった。 一緒にいたいと、強く。 一度そう思ってしまったら、もう抑えることはできなくて。 「殺せるわけ、ないだろ…っ」 初めてだったのだ。 独りじゃないと知った時の、あんなに暖かい感情は、初めてで。 それが分かっていたから、あの後休むこともなくここに来た。 時間が経てば経つほど、自分の中でこの男の存在が大きくなっていく。 暖かい安堵感に包まれるのが分かっていた。 その前に、将軍を一番にと考えている今の己でなくなる前に、来たのに。 小声で言われたそれに、男はため息をついた。 「…じゃあ俺、殺されなくていいんだな?」 俯いたまま頷くと、座っていた男がゆっくりと立ち上がる。 唇を噛み締めながら、それでも少しずつ顔を上げれば、こちらを見つめる緑と目が合った。 間違いなく異人であるその姿に、深い安堵を抱く。 強張っていた顔がゆっくりと解けていくその様を見て、男が意外そうな顔をした。 「な、んだ?」 「いや、何でもない。…とりあえず、帰るんだろ?国に。こっちだ」 「え…ああ、そうだな。いつまでもいるわけにはいかないし」 この男を殺せなくなった今、これ以上敵国にいるのは無意味な上に危険だ。 次、お互いの身の上からいつ会えるかも分からないが、約束なんてものをできるわけもない。 どうしようと、奥の部屋へ向かう背中を見ながら思った。 「そういえば、何で屋根裏に行くなって言ったんだ?」 「屋根裏は出るところが数箇所あるが、全て目のつきやすいところなんだ。いくらお前でも、城の忍全員とやりあうのは無理だろ。お前が従ってくれて助かった」 「…なるほど」 「逆にこっちは、俺しか知らない抜け道だ」 部屋に入って左手の窓、そこからのぞくと普通の屋根が続いているだけだ。 「そこの屋根をおりたところのすぐ横が城主の寝所だ。女好きな奴だから、声がひっきりなしに聞こえる。誰も恐れ多くて近づかない」 「…お前、結構いい度胸してるんだな」 「言っただろ、仕えようって奴じゃないんだって」 確かに、抜け道としては最高だろう。 数瞬で屋根の位置を確認して、窓に足をかける。 次はいつ会えるのかと思って、そしてふと思いついて。 「…アレン」 「あ?」 「俺。アレンって名前」 今までこれを呼んでくれたのは父と母、そして将軍しかいなかった。 せめて、名前を知っていたら。 お互いが呼び合うことで縁が結ばれて、また会えるかもしれない。 ただの願いだが、自分の名前を知っておいてほしかった。 「…アレン?」 「そう。お前は?」 「グレンシール」 「ぐれんしーる…グレンシール、な。分かった。一日一回は呼べよ」 「…は?」 「そしたら、また会えるかもしれないだろ?」 「……分かった」 笑って言えば、眉をよせたままそれでも頷いたグレンシールがおもしろかった。 もう一度周りを確認して、振り返る。 「じゃあ、またな。…グレンシール」 「…ああ。アレン」 そしてバッと飛び降りた。 月が出ていないために闇にまぎれるのは容易く、城主の寝所近くという、言うなれば一番守るべきところにも関わらず忍は一人もいなかった。 息をあがらせることなく城を出て、街中に入った。 夜中のために辺りが皆寝静まっていることを確認して、城を振り返る。 もっと話したかった。 声を聞きたかった。 一緒に、いたかった。 後ろ髪ひかれるような気持ちというのはまさしくこういう風なのだろうと、初めての感覚に戸惑いながら。 アレンは闇夜に消えた。 2005 8 18 |